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3117復興G:2013/10/08(火) 12:10:19 ID:AB6RqYXc

 テキスト 『生命の實相』 第5巻 第1章に入る前の扉裏には、神示が一つ掲載されています。ここには題は付けてありませんが、「七つの燈台の点燈者の神示」 の一つである 「本来生、不滅の神示」 と後に名づけられた神示です。

     * * * * * * *

 物質の束縛に縛られざるものを人間と言うのである。真の人間は「神の子」であって物質ではなく、肉体ではない。肉体ではないから物質の世界に出入(しゅつにゅう)する事もない。物質の世界に出入する事がないから物質の世界より見れば人間は不生(ふしょう)である。不生であるから滅することも亦ないのである。

 物質界は念に従って生ずる念の映像なるが故に、従ってまた滅すれども、「人間」は本来物質界に生ぜざるを以て又滅すると言う事もない。

 人間は本来「生(しょう)」である。「滅(めつ)」に対する「生(しょう)」ではなく本来「生(しょう)」であるから、老なく、病なく、死なく、破壊がないのである。老とは「生(しょう)」の衰耄(すいもう)を言えども、人間は本来「生(しょう)」であるから衰耄せず老朽しないのである。衰耄は「生(しょう)」に非ず、人間に非ず。衰耄なきを「人間」と言い、老朽せざるを「人間」と言う。病なきを「人間」と言い、死なきを「人間」と言う。

 釈迦は「人間」の生老病死(しょう ろう びょう し)の四苦(しく)を見て出家(しゅっけ)したと言えども、釈迦はそのときまだ「人間」を見ていたのではない。念の影を見て「人間」と思い違いしていたに過ぎない。
 釈迦が此の世を見て無常(むじょう)と観じたのも「真の人間」の世を観たのではない。それは無明(むみょう)の投影の世を観て無常としたのである。

 真の人間は無常の中にあらず、肉体の中にあらず、人間は永遠不死、金剛身(こんごうしん)、実相身(じっそうしん)、清浄身(しょうじょうしん)である。

 人間は神の子なるが故に本来「浄」にして不浄ではない。人間を指(さ)して不生不滅不垢不浄(ふしょうふめつ ふくふじょう)と言うのは真相ではない。

 般若(はんにゃ)の思想は無常想から実有想(じつうそう)に到る過渡的思想であるから、不生不滅不垢不浄を説きたれどもこれは物質に譬喩(ひゆ)しての方便説である。

 人間は不生不滅ではなく、本来生(ほんらいしょう)にして不滅がその実相である。

 また人間は不垢不浄ではなく真清浄真無垢(しんしょうじょう しんむく)がその実相である。

 本来生、不滅、本来清浄真無垢なる人間の実相を知ったとき汝らは歓びに満されて手の舞い足の踏む所を知らないであろう。
  (昭和七年十一月二十五日神示)

     * * * * * * *

 ――皆さま、上記神示の意味、わかりますか?

 「本来生(しょう)、不滅、本来清浄真無垢(しょうじょう しんむむ)なる人間の実相を知ったとき汝らは歓びに満されて手の舞い足の踏む所を知らないであろう。」

 の意味です。

 私は、
 「人間は不生不滅ではなく、本来生にして不滅がその実相である。」

 という意味が、なかなかわかりませんでした。

 今でも、「完全に解った」 と言えるかどうか、疑問ですが、ご著書 『無限供給の扉を開く』 の中に

 <<現象時間は存在しない、従って非存在の現象時間の中にある事物も存在しない>>

 <<そうすると、吾々は今ここの自己の内に過去も現在も未来も把んでいるから、過現未が自分の掌中にあるのです。

 普通、過去は変化することが出来ないというけれども、過去も変化できる。そこから吾々は真理を自覚すれば過去の業を消すことが出来るということがわかる。>>

 とあるようなお言葉にびっくりしました。
 「普通、過去は変化することが出来ないというけれども、過去も変化できる」
 と言われるんですから。

 <つづきます>


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