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Web誌友会 板/2

2854復興G:2013/09/21(土) 17:27:55 ID:AB6RqYXc

トキ様、ありがとうございます。

 谷口雅春先生は、伝道の効果を考えておっしゃっているわけではなく、すべての人が本来仏であり神であるというのが真実実相であることを見抜かれ、観じられたから、>>2851 のようにおっしゃっているわけですが、それが 「現場の経験から言っても、伝道をする場合に効果的」 ということは、それが宇宙の法則つまり真理に則っているということですね。


 ところで、私は 「生長の家出現の使命、意義」 について考えています。

 大切な使命の一つに、「万教帰一」 ということがあります。

 生長の家は、人と人とを和解させるだけでなく、≪宗教と宗教を和解させる働きをする≫。
 (『生命の實相』 第5巻p.134)。

 そして ≪個人を生かし、家庭を生かし、国家を生かし、肉体を生かし、経済を生かし、環境を生かし、すべてのものを大和同せしめ、すべてのものを共栄せしめる教えがこの 「生長の家」 なのであります。≫
 (同上書p.155〜156)

 これはとても大切な、生長の家の一大特徴である。これが出来なくなったら、生長の家出現の意義がほとんど消えてしまうと私は思っています。

 このことは、今回のテキスト範囲では、次のところに明示されています。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

(『生命の實相』 第4巻 p.96〜 )
 坂下夫人――おかげさまで宅の子供はこのごろ元気で暴れてしかたがないくらい元気でございます。

 谷口――そして生長の家の信仰は在来の御信仰とは衝突しはしなかったでしょう。

 どうも今までの宗教の信仰家といわれるかたは、名前にとらわれていて、キリスト教信者ならキリスト教という名前のついたものでないと、承知ができない。

 他の名前がついたものではどうも感情的に毛嫌いされるというような傾向があったのですが、キリスト教にもいく派もあり、みなそれぞれ教義や聖書の解釈が異っていて、名前は同じでもほとんど別物だと思われるのがあります。

 ところが仏教にもいく派もあり、名前は仏教でも真正のキリストの教えに一致するものがあるかもしれぬ。

 こういう場合、名前によって仏教を排斥し、キリスト教についているというようになると、教えの実質においてかえって真のキリストの教えを排斥して、他教についているということになるのです。

 だからキリスト教でなければならぬと宗教の名前にばかり固執することは、かえってキリスト教に遠ざかるかもしれません。

 本当をいえば、キリスト教の神髄も仏教の神髄も同じことである。真理は一つでなければならん。何教何教といって争っているようなことでは、その争っている気持そのものが、神の愛のみ心にかなうものではない。

 神は一切を包容し給うものであるから一切の宗教をも排斥せず包容しなければならぬ。

 それでは何々教といっていては争いの元になるから、教といわないで「家」ということにしよう。「家」というと、みながそこへ帰って、くつろいで落ち着くところである。それですべての宗教が生長の家へ来ると、元の巣へ帰ったことになる。

 生長の家へ帰って来たならば、あらゆる宗教はこの家から生長して兄弟だということがわかる。そこでは宗教争いがなくなって始めて、本当の偏狭でない、伸び伸びした愛の心が甦生(よみがえ)ってくるのです。
<つづく>


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