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Web誌友会 板/2
2847
:
復興G
:2013/09/21(土) 10:31:51 ID:AB6RqYXc
>>2842
:a hopeさま
>>先日、悲願という言葉を調べていて、悲願には二つ意味があることがわかりました。
そして、その一つは「仏・菩薩(ぼさつ)が慈悲の心から人々を救おうとして立てた誓い。」でした。
今回のweb誌友会では、そのことについて復興Gさまに質問してみようと思っていました。
実相世界はいつ何時でも完全円満なわけですが、現象は悲惨なことも多いです。
雅春先生もその現象を見られて、慈悲の心を起こされて光明化運動を始められたのでしょう?
この菩薩の慈悲の心とは、実相の心なのでしょうか?
それとも、現象の心なのでしょうか?
菩薩の慈悲の心について、教えていただけるとうれしいです。 <<
――テキストの174〜176頁に、次のようにあります。
<<人間はなにができなくとも自分の価値は不減不耗(ふげんふこう=すりへることがない)の神性である事実が第一なのです。
それがわかればなにもしなくともよい、人を救わなくともよいというのではないのです。それがわからなければ第一自分が救われていないのです。
「生長の家」の「智慧の言葉」に「自分に深切であれ」という言葉がある。自分が救われなければ、他を救うことがわからないのです。
救われたという状態はどんな状態だということがわからなければ、本当に人を救われた状態に導くことができないのです。盲目の手引きでは救いに導いているつもりで、かえって河の中へ引きずり落すかもしれないのです。
人を救うことを、金を義捐(ぎえん)したり、救恤(きゅうじゅつ)品を集めて送ることやら、結核療養所という建物設備をつくることのように思っていられる人もありますが、それも一つの救い方で時には尊いのでありますが、本物の救いではないのです。
物品や金をもらって人の愛に感じて救われる人もありますが、物品や金をもらったために懶(なま)け心や依頼心を増長させてかえって堕落する人もある。結核療養所という厖大(ぼうだい)な建築物をたて、それに不快な恐怖すべき名称をつけたために、病気の心的観念を周囲に撒布(さんぷ)して、一方には結核を治そうと努力しながら一方ではその治す力の何十倍も病人をふやしているとしたら、救っているつもりで一体なにをしているのかわからないのです。
物によって人を救おうとする企ては必ず一利一害があって、利益の方を見る人はその利益を誇張して大変世の中を救っているように考えますけれども、物によって救うその救いは永久性の救いになっていない、物は永遠性のものでないから、物だけで救われた救いならば、その救いは必ず壊(やぶ)れる時が来るのです。
物がなくとも救われる救い、何物がなくとも自分が神である――そのままで救われているという自覚上の救いにあずからなければ、本当に救われたといえないのです。>>
谷口雅春先生は、「現象を見られて、慈悲の心を起こされて光明化運動を始められた」 というのは、必ずしも当たっていないと思います。というのは、『生命の實相・自傳篇』(頭注版第19・20巻)に書かれていますように、谷口雅春先生は 「現象なし、実相独在」 の真理をお悟りになるまでは、ご家族に対してすら、慈悲の心を起こして救おうとされても救うことが出来なかった。
光明化運動を始められたのは、(『生命の實相』 第20巻 p.134〜 )
<<ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空(しきそくぜくう)」という言葉を思い浮かべた。と、どこからともなく声が、大濤(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。
「物質はない!」 とその声は言った。で、わたしは 「空即是色(くうそくぜしき)」 という言葉を思い浮かべた。
と、突然その大濤のような声が答えた。「無よりいっさいを生ず。一切現象は念(こころ)の所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無よりいっさいを生ず。有(う)よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り、『無』 より百千億万を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによって転現せる化城(けじょう)にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。知れ、一切現象無し。なんじの肉体も無し。」
<つづく>
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