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Web誌友会 板/2

2800復興G:2013/09/18(水) 22:12:48 ID:AB6RqYXc

 <つづき>

 さて、その 「師は壇上に泣き給う」 です。

   *  *  *  *  *  *  *

師は壇上に泣き給う

 明朗とほほ笑みと和顔をモットーとせられる先生が、一千名近い信徒と若き血燃ゆる青年大衆の前で、本当の衆人環視の壇上に立たれて、白いハンヵチで顔を蔽われつつ咽(むせ)び泣かれたことがある。そして聴講者大衆も先生の涙に誘われて嗚咽(おえつ)して泣き、中には声をあげて泣くものさえあったのは、まさに歴史的事態といわねばならぬ。

 昭和二十五年五月三日。尾道市久保町の加藤慶一郎、豊子夫妻が半生の心血で築きあげた割烹旅館「藤半」の全域を挙げて生長の家に寄進した、尾道市生長の家道場で、全国青年大会が開催され、谷口総裁、輝子奥様、清超副総裁が西下御臨席で、全館満員の大盛況であった。

 まず清超先生が青年を湧かせる名講演で大会が開かれ、輝子奥様はあの清麗なお姿に満場の視線を集めてお立ちになり

 「私の父はすでに四十年前――私の十二歳の時に亡くなりました。私は十番目の末っ子で、ことに父に可愛がられましたが、その父の愛はいまだに私の心の中にはっきりと生きております。私は日本一の父だとその当時から今もなお固く信じております。

 父は無口な性(たち)で子供たちには何にも話しませんが、母は子供たちに町内第一の父だと常々言いつづけておりましたのが、私の心の底にしみとおったのでございましょう。父はまた、母を生涯一人の女として深く愛しておりました。

 いま私は娘恵美子にも、先生を日本一の父だ、夫だと教えております」

 と冒頭されて、女性のため感激無上の御講演があり、やがて谷口先生が登壇せられた。沈痛なる語調で……

 「今、私は家内から、日本一の夫であり、父であるとか何とか言われましたが……私はそのような資格あるものではないので……」

 と絶句して嗚咽され、白いハンカチで涙をぬぐわれつつ、涙声で――

 「ほんとう言えば、こうした壇上に立って多くの人々に向かって、教えを説く資格が自分にあるとみずから信じ得る人がはたして世にありましょうか……」

 と嗚咽がつづく。

 満場寂(せき)として静まり返った瞬間、たちまちあちらこちらから咽び泣きの声が、すすり上げる声が起こると思う間に、悲鳴に似た男の泣き声が私のすぐそばから起こった――大阪教区の重鎮 星丘重一(ほしおかしげかず)氏であると認めた瞬間、私もとうとう咽喉(のど)の奥から泣き声がほとばしってしまった。

 満場惨然たる流涕(りゅうてい)嗚咽の声、悲しみにあらず、歎きにあらず、哭(こく)するにあらず、慟(どう)するにあらず。ただ如来大悲の前にみずからを顧みて 「心は蛇蜴(だかつ)の如くなり」 と自責悲泣した親鸞と同じき、谷口先生の謙虚無執の自己懺悔の大慟哭に、呼び醒まされた自己叱咤の涙であった。

 「師は壇上に泣き給う」と語り伝えられて、全国の本部講師と地方講師は、粛然とその言動を慎しむに至った。

 「寝床を他(ひと)に始末させるのは豚である。講師は豚であってはならぬ」と神誌にお書きになり、本部講師が巡講の旅先で夜具蒲団を始末する習慣が始まったのも、この頃からである。
(東山半之助著 『ざっくばらん―この道三十年―』 より)

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 ――同書には、そのほか、戦前から谷口雅春先生のお側に仕えた東山氏の、今となっては本当に貴重な、先生に関するエピソードが満載されていますね。


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