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Web誌友会 板/2

2723曳馬野:2013/08/31(土) 07:21:02 ID:TZ2/719s
A hopeさん

【と云うことが観念でないのならば、エアコン、扇風機いりませんよね。
原発賛成の本流派の皆さんには福島に往って復興に協力していただきたいものです。放射能なんて外の物質には支配されないのですから。】

というような、極論はちょっと違うのではないでしょうか。

復興Gさまがおっしゃる【生命は、物質的環境に支配されるものではない。】

という意味は、神の子の自覚とは「エアコンを使うとか、放射能を浴びるとか、そんな現象の出来事には捉われない」ということのではないのでしょうか?

ですから、>>2712でHONNNEさまがおっしゃていることは、正しいのではないかと思いました。

*極論ですか?【利用できるものは何でも自由に利用したらよい、これはいけないあれはいけないなどと縛られてはいけない】と云うことでしょうか?
そうなんですよ、あれがあったらいいな、こんなのがあったらいいな、と人間の欲望に企業家は火をつけて、それを得た満足感を生活の豊かさと錯覚させたのではないのかな。私の小学生の頃にはエアコンはおろか扇風機も無く、夜は蚊が一杯ですので、ムシムシの蚊帳の中で親子五人寝まして、暑いので母親は団扇で扇いでくれました。自分で汗の出るときに団扇で扇ぐと、涼しさと疲れとが同じで何にもならないことがわかります。母の愛は有り難いです。というわけで扇風機もエアコンも無くても元気に育ちました。利便追求の結果として存在している物質に頼ること、これを生命の自由と思いますか?夏の暑い日でも土方仕事は有りました。そんな作業従事者は筋骨隆々、暑さに負けない体になったのです。それに引き換え今のお年寄りはエアコンの中、花屋の一定の温度管理されている切り花同然で、ちょっとした温度変化に体がついていかないのですね。温度変化に負けない体を生命によって作り出すことが自由であり、エアコンに頼らなければいけない体は生命の自由とは思えません。物に頼る生活を物を自由に使うことと同じとは思われないです。電気製品に頼るところに電気の需要が膨らみ、自然エネルギーでは追いつかづ原発と云うことになったのではないのですか?。そして一端何か起きた時には手の付けようがない原発、使用済み核燃料の処理法のない核廃棄物を今に生きる人間の欲望を満たした負の遺産として後世に残す。これが生命の自由とは私は思えません。
【放射能を浴びるとか、そんな現象の出来事には捉われない」ということなのではないのでしょうか?】
放射能を浴びることに捉われなければその人にとって何の害にもならないということでしょうか?であるならば真理をよく知った本流派の人たちは率先して福島で活動すべきですね。生長の家が瞬く間に福島を席巻するでしょう。


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