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Web誌友会 板/2

2685復興G:2013/08/23(金) 10:28:10 ID:AB6RqYXc

<つづき>
 自分を喜び拝むためには、現象の自分を見ていては拝めません。現象というのは、心と、心の現われとしてのすべてです。この現象は、生長の家では 「無い」 と言うのです。

 現象はたえず変化しているのです。心の状態はたえず変化し、一秒間に三千回も変化すると言った人もおります。それが正常な心だと言われております。

 ただし、それはたとえば雲のようなものです。雲はいくら曇っていても、青空はよごれないのです。今日どんなに曇っていても、明日晴れたら、今日の雲のしみは青空に残らないのです。心と心の現われなる現象は雲のようなものです。変化しない實相は、青空のようなものです。

 一秒間に三千回も変化するのが正常なる心であり、正常なる心の雲であり、正常なる現象です。ただし、それは現象であって、いくらあるように見えていても無いのであります。自分を拝むというのは、雲を飛び越えて青空なる自分をたたえることなのです。

 青空は、雲がなくなってからあるのではありません。雲があろうがなかろうが、全宇宙が青空であります。このように、心の変化がおさまっていいことが出来てから、自分を拝むのではないのです。

 心のきれいな人ほど、反省して心をきれいにしてから自分を拝もうとされるのですが、それは、タバコの煙を、火のついたタバコをもった手で消そうとするようなもので、人類は何千年間もそれをやって来たのですが、これをやればやるほど迷いが深まって行くという結果になったのです。

 また心のきれいな人ほど 「私は我がつよいですから、宗教で反省して、この自我をたたき壊してから自分を拝もう」 とされるのですが、これは宗教ではありません。

 宗教は神の完全と人のいのちの完全とを拝むのですから、「神は完全だから、自我というような不完全なものはつくっていられない」 と、自我という雲を放っておいて、青空である、太陽である自分をたたえるのが宗教です。

 本当の宗教は、反省によって心を浄めて行くのではないのです。それではいつまでたっても新しい反省の材料が入って来ますから、浄まり切るということは出来ないのです。

 つまり、我をなくしてから自分を拝むのではなく、我はあろうがなかろうがそんなものは放っておいて、神そのものなる、完全なる自分を讃えるのであります。

 電気をつけると暗はそのあとで消えるのであって、反省して心の暗をみがいて明るくしてから電気をつけるのではないのです。
 自分を祝福するという光明の電燈がつくことによつて、あとで自我という暗は消えると思ってもいいのであります。

 要するに、「ハイ」 と素直に、神のつくられた完全なる自分を受けるのです。感謝をして、神想観をして、本を読んで、愛行をして、生長の家になり切ってから自分を拝み、喜ぶのではないのです。それらの何ものがなくとも、このまま 「神は完全」 「自分は完全」 と拝むのであります。これが生長の家であります。
 (以上、榎本恵吾先生 『研修のヒント』 より)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ――結局、「我(が)」 というのは、「ない」 ものなのですね。「我」 というものは 「ない」 のですから、「どこからが自我でどこからが無我」 という区別も 「ない」 のですね。


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