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Web誌友会 板/2

2683復興G:2013/08/23(金) 09:38:25 ID:AB6RqYXc

>>2679 :ユタカさま

>>無我というのはどのようなものでしょう。
前に仰っていました、無我になって歌うとは? どういう状態なのでしょうか?
また、日常生活において無我とは? 自分以外の人の意見に合わせるということでしょうか?
どこからが自我でどこからが無我という区別はどのように判断したらよいのでしょうか?<<

 いつも、素直なよい質問をぶつけて下さって、ありがとうございます。
 そのように素直なのが無我だと思います。

 私の経験では、ある日フト、「あ、“自分が自分を守らなければならない” と掴んでいた “自分” というものは本来なかったんだ!」 と気がついた。――というような体験があるのですが、これは、説明は難しいですが……

 「 “自分” というものは本来なかったんだ! “空っぽ” だったんだ!」

と 気がついた。そしたら、 「本来の “空っぽ” に還ったら、自由自在だ!」 と思えた。そして、

 「自分の中にすべてがあり、すべての中に自分がある。みんな自分だ、すべては自分だ! だから、見栄や体裁を繕う必要はなく、そのままの自分を出していけばいいんだ、なんと楽でありがたくうれしいことか!」

 と思えたんです。

>> 無我になって歌うとは? どういう状態なのでしょうか?<<

 これは、僕は今もコーラスをやっていますが、我の力で発声練習をしてパート練習をして良い声で音程を正確に歌おうなんて自力でやってたら音楽は 「音が苦」 になってしまう。

 そうではなく、まず全体の和音の中に自分の声が消え入ってハモるときの何とも言えない快さをしっかり味わいながら “無我になって” ――我れを忘れて歌うと、「音が楽しい」 本来の 「音楽」 になって、声は自然に出てくるんですよ。

>> また、日常生活において無我とは? 自分以外の人の意見に合わせるということでしょうか?<<

 孔子は、

 「小人は同じて和せず。君子は和して同ぜず」 (論語)

と言っています。人の意見をよく聴くことは大切でしょうが、自分の意見を殺していつも他人の意見を入れるということではなく、自分の良心から出た想い、意見を素直に表明して、時には意見を戦わすことも 「無我」 だと思いますよ。

>>どこからが自我でどこからが無我という区別はどのように判断したらよいのでしょうか?<<

榎本恵吾先生の 『研修のヒント』 というのに、こんな話があります。
<つづく>


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