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Web誌友会 板/2
2650
:
復興G
:2013/08/20(火) 11:12:19 ID:AB6RqYXc
さて、
>>2638
:ユタカさん出題の
>>第2章
問1 P、24〜
倶てい和尚から指を切られた小僧の話を読んで、生長の家教団の状態を見ると「甘露の法雨」「生命の實相」を失った現状をどのように考えられるか?<<
――まず、その「倶胝竪指(ぐていじゅし)」とは、ということについて、テキスト 『生命の實相』 第4巻p.24 第2章冒頭のご文章を謹写いたします。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『無門関』第三の公案に「倶胝竪指(ぐていじゅし)」という条がある。金華山の住持倶胝和尚はいかなる参門者があって何事を問おうとも、ただ一本の指を竪(た)てて示すのであった。その指を見ても悟るものもあれば悟らずして去るものもあったであろう。形を見るだけで真生命を見ない者は悟ることはできないのである。
小僧某、一日外にありて人に問われて答うるに倶胝和尚をまねて一本の指を立てて示した。
小僧某はこのとき倶胝和尚の形をまねたにすぎないのであって、なにゆえ倶胝和尚が指を立てるかその真生命には触れていないのであった。
和尚これを聞いて小僧の立てた指を切り去った。小僧は痛いので悲鳴をあげて逃げようとする。この時倶胝すかさず小僧の名を呼んだ。小僧は和尚がなにをいうのかと思って振り向くと倶胝は例によって指を立てて示した。それを見た瞬間その小僧は大悟(さと)った。
なにを小僧は悟ったか――それを知るものはその人もまた大悟(さと)ることができるであろう。
小僧は自分に立てるべき指のある間は形にとらわれて真生命を見なかった。が、今自分が指を切り去られたとき立てるべき指がない。しかも師の和尚はかくのごとく立てよと指を示しているのである。無い指をどうして立てるか ここに禅の真生命がある、立てるべき指は形の指ではなかったのである。
指があって立つような指なら指が無くなったときには立たなくなるであろう。本当に立つ指は指が無くなっても、なにがなくなっても立つ指でなければならぬ。和尚が示したのはなにが無くとも束縛されない自由自在の「生命の指」であったのだ。
これが無いと困るとか、あれが無いと困るとかいう者は「生命」の実相を知らない者なのだ。なにが無くとも少しも困らないのが、われらの「生命」の実相であるのだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
――さあ、ユタカさんがおっしゃるように、今
>>生長の家教団の状態を見ると 「甘露の法雨」 「生命の實相」 を失った現状<<
は、「小僧が倶胝和尚に指を切られたような状態」 と見ることができるでしょう。
それは、教団にとってそうであると同時に、教団を離れている信徒にとっても、頼るべき総裁・教団が頼れなくなっているということは、「小僧が倶胝和尚に指を切られたような状態」 と言えるのではないでしょうか。
<< 小僧は自分に立てるべき指のある間は形にとらわれて真生命を見なかった。が、今自分が指を切り去られたとき立てるべき指がない。しかも師の和尚はかくのごとく立てよと指を示しているのである。無い指をどうして立てるか ここに禅の真生命がある、立てるべき指は形の指ではなかったのである。
指があって立つような指なら指が無くなったときには立たなくなるであろう。本当に立つ指は指が無くなっても、なにがなくなっても立つ指でなければならぬ。和尚が示したのはなにが無くとも束縛されない自由自在の 「生命の指」 であったのだ。
これが無いと困るとか、あれが無いと困るとかいう者は 「生命」 の実相を知らない者なのだ。なにが無くとも少しも困らないのが、われらの 「生命」 の実相であるのだ。>>
――今こそ、信徒みんながこの 「生命」 の実相をつかんで立たなくてはならない時であると思います。
<< 「光明化運動」 は単なる、實相をこの世に写し出す、影を生み出す運動ではないのである。光明すなわち實在それ自体の自己展開、価値創造として存在するのである。
實在であることは、神であることであり、それ自体で不滅の久遠の自己展開そのものであるということであり、 「光明化運動」 は久遠不滅の自己展開それ自体である “生きもの” であるということなのである。
斯くの如き、生長、創造それ自体であるものを光明というのである。 「光明化運動」 がみずから 「光明化運動」 を実現するのである。自分というものはどこにも要らないのである。>>
――と記されている榎本恵吾先生の 『神癒の展開としての人類光明化運動』 は、現在の公案にたいする素晴らしいヒントを与えてくれていると思います。
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