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Web誌友会 板/2

26a hope:2013/02/04(月) 22:31:22 ID:TqpbsVIM
(つづき)
また、「生長の家の教え」は、大調和の教えですからすべての人々は実相世界では大調和していて、
すばらしい一体感を味わっているのではないかと思います。
ですから、その状態においては、実相に種類などはないのではないかと感じますが、
以前のweb誌友会で、『多様性』という言葉が話題にあがったときに、
わたしが「唯神実相の教え」の「生長の家」が多様性を説くのはおかしいのではと発言したときに、復興Gさまから、

>>私は、実相世界は無限の「多様性」に充ち満ちた、そしてすべてが秩序をもって中心帰一していながら、
縛られるのではなく自由に解放され生かされている、喜びの世界だと思っています。<< (web誌友会板>>1373)

というお返事をいただき、実相世界の多様性を理解しました。
ですから、その観点から考えると、実相も多様性に満ちたものなのかもしれませんね。


>>また、「実相を拝む」との表現がありますが、これでは「拝むもの」と「拝まれる
もの」との相対の見におちいることになりはしないのでしょうか。主観と客観の
区別を説くのが二元論である、というのがわたしの考えです。<<
>>「自分の実相」と「相手の実相」があるとおもってしまうことじたいが、すでに
迷いであり虚説ということになりはしないのでしょうか。<<


これは、以前まだわたしが教団の信徒だったころ、教区の講師の先生にご教授いただいたのですが
(復興Gさまからも同じようにご指導いただいていると思います)、
相手の実相を拝むときには、まず、自分自身の完全円満な実相を拝み、
そのイメージが十分できてから、相手を自分と一心同体であると思って拝むようにと指導していただきました。
その状態では、主観も客観もなく、わたしと相手が完全に一体化した状態になっているのだと思います。

また、「サタン」については、初心者さまとわたしの「サタン」という言葉の意味のとらえ方が異なっているように感じています。
わたしは、生命の實相 倫理篇「虚説に和解してはならぬ」p62のところの文章にあるサタンをイメージしています。

『「なんじの敵を愛せよ」といったイエス・キリストさえも、「サタン」に対しては和解していないのであります。
イエスが四十日四十夜、精神統一の修行をしている時、そこに幻のように現われたサタンに対しては、
イエスはそのサタンの邪説に耳を傾けようとしないで、「神を試むべからず、サタンよ退け、主なるなんじの神を拝し、
ただこれのみに事(つか)うべし」と、一喝しているのであります。
この場合、サタンとは異端、邪説、妄説、妄想、雑念のことであります。』

ですから、初心者さまがおっしゃる

>>、「サタン」の表記がありますが、サタンとは、「真の生長の家」とどうよう、
絶対の正義の権化であり、間違ったことを絶対に許そうとしない正義の存在なの
ではないでしょうか。「あのものはこのような間違ったおこないをしております」と
神に告げ口するのがサタンの役割であると理解しております。<<

という、初心者さまのお言葉は申し訳ないのですが、よく理解できませんでした。

それから、わたしは、真の「生長の家の教え」とは発言しますが、
「真の生長の家」と発言したことは今までに一度もないのではないかと思うのですが…
(思い違いだったらすみません)

「生長の家」はすべての人類、生物の住む完全円満な実相世界であって、「真」も「虚」もないと思います。


初心者さま、これで答えになりましたでしょうか?


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