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Web誌友会 板/2
2517
:
曳馬野
:2013/08/01(木) 20:58:24 ID:TZ2/719s
A hopeさん
ところで、なんだかわたしの最初の発言からは論点がずれてしまっていますね。
真理を知り生きるとは?どういうことか。ということからの発言です。生長の家の先祖供養とはどういうことかについて復興Gさんの投稿に賛辞が寄せられていることについて、その通りでありますが、其の儘に他の生活に及ぼさないのか不思議なんです。十分に生命の実相を知っているはずの本流の方々が、雅春先生から清超先生へまた雅宣先生へと運動の形態が変わるにつれ、【無私の日本精神】を発揮して行動すべきものを、中心帰一の真理を撥無する行動が解せないのです。生命の実相を知るとは無私にして其の儘に生きることと私は思っています。
吉田国太郎先生の言葉に【善を励んで善の虜となれば善中の悪。神を願って神に縛せられれば神中の悪魔。一切を放して放した姿に憑かれれば無中の有。無執無縛にて神を想い善事を励む、これ仏子現成の境涯。】とあります。
また雅春先生の【絶対無の日本武道】に
【「絶対無の心境」が日本精神であります。苟も心に一塵の「有」がありましても、その「有」に縛られて日本精神本来の自由自在が失はれてしまふのであります。絶対の自由は無条件に生命を捨てるところから生ずるのであります。我々は何でも予め抽象的な条件をつけて斯うでなければならない、ああでなければならないと、一つの予定的「有」をつかむと、その「なければならない」と云ふ自己限定にみづからいのちが縛られて自己生命の自由自在さを失って・・・・】とあります。
また五月三日無心無我の日には
【近思録に「夫れ天地の常は、其の心萬物に普くして、無心なるを以て也」とあり。無心なるところに天地の常があらはれるなり。「天地の常」とは「生命の実相」のことなり。ありのままの生命の完全なる相なり。それを現はさんとすれば、無心にならなければならない。無心にして天地運行し、四時行はれ、春化開き、夏茂り、秋実る。無心の中に一切がある。一人の僧趙州和尚に問ふ、「如何なるか是れ道」と。趙州和尚答ふ「平常心是れ道」と。平常心とは平常の雑念のままの心には非ざるなり。平常心とは無心のことなり。金剛経に「まさに住する所なくして其の心を生ずべし」と。無心の心を引き出し来たれ。】とあります。(これは逆に「其の心を生ずればまさに住する所無し」とも読まれています)
つづく
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