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Web誌友会 板/2
2202
:
曳馬野
:2013/07/08(月) 05:47:52 ID:vcOZ9g8c
真理は正しくとも実践されなければ絵に描いた餅です。真理は正しい真理は正しいとばかり言っているのみで実践が伴わない人を指して原理主義なる言葉が発生したものでしょう。
「本流といわれる人々は何に回帰しようというのでしょうか?50年代に生長の家を指導した人たち、またその下で青年会を指導した人たちの指導が良いものであれば、もっと違う生長の家が出来ていたことでしょう。」
との私の意見は、真理の実践あるのみとの指導が40年代後半から徹底されず、自己満足型になっていったとの意味です。宇治別格本山のホームページの歴史の第二章に、親不孝者三人の体験談が載せられています。徹底した実相直視の体験談であります。雅宣先生がという前に先生の実相を徹底的に見、己の心の迷いを取り去るべきでしょう。それが出来ているうえであなたが言われた日の本の霊的進軍として、大東亜戦争と同じ意味合いで本流なる分派活動が起こっていると云うのですか?私はそうは思いません。雅宣先生がどうあれ実相を観て頭を下げていられる人間でありたいです。
周りの人々の実相を観ること能わず、体験の出ない運動になったがゆえに、入龍宮を観念で済ます人が増えたから、我らのみにては力足らず、かくなるうえは竜宮住吉の大神のお出ましを願うほかなしとして、竜宮住吉本宮の建立に至ったものだと思います。
勿論トキさんが言われるように今の自分の影ととらえなければいけません。それは第一で先達の責任であるというつもりはありません。ですから違った生長の家になっていたことでしょうと云ったのです。私が問題とするのは、本流回帰、復興の意味するものが観念論の真理回帰なのか、本来の実践真理への回帰なのかということです。
原理主義種でなく実践主義者であれというのが私の意見です。
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