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Web誌友会 板/2

2191曳馬野:2013/07/06(土) 18:10:55 ID:vcOZ9g8c
復興Gさんありがとうございます

その 「神の国」 の実相顕現のためには、根本において 「物質なし、肉体無し。人間は霊である、神の子である、神である」 という自覚に目覚めなければならない。

 「現象あり」 と認めれば、必ず対立抗争の世界が展開する。「霊」 の世界は 「一つ」 であるから、真の 「ヒノモト」 (霊の本) に立てば、対立していた者も自ずから 「一つ」 に結ばれるからであります。
そのためには自我を死に切り、己れを無にする必要があります。対立のない「霊」の自覚に立っての「聖戦」を、今日も戦ってまいりたいと思います。それは、己れ自身との戦いであります。


色々言われたご意見は、私が50年代に生長の家を指導されていた思いが良いものであれば、違う生長の家になっていたでしょうと云った、指導方針に則った真理理解のご意見だと思います。

真理の実践者が多くいたのであれば住吉本宮は建立される必要がなかったのではありませんか?

住吉本宮を建立されたとき雅春先生は何と言われたでしょう?吾ら為す術を知らずと言われませんでしたか?


【・・・・・自覚に目覚めなければならない・・・・・・・真の 「ヒノモト」 (霊の本) に立てば、対立していた者も自ずから 「一つ」 に結ばれるからであります】

これが出来ている人がいるのでしょうか?

【「現象あり」 と認めれば、必ず対立抗争の世界が展開する】、この原理を正しく理解実践できる人が八ヶ岳教団とか原宿教団とかという名称で人を指差すでしょうか?

本流と称する人達の中に一人でも居られるのでしょうか?

今ここに生長の家誌の昭和18年五月号があります。法語というべきものとして生命新体制記というものが書かれ、そこに盤珪禅師のことを取り上げ生長の家と全く同じであると書かれています。
盤珪禅師の不生禅といわれるものは一切の念を浮かべないというものです。そして論文的なものとして「絶対無の日本武道」なるものが説かれ、その最初の文に

【『絶対無』の心境が日本精神であります。苟も心に一塵の『有』がありましても、その『有』に縛られて日本精神本来の自由自在が失われてしまうのであります。・・・・・・・・
斯うでなければならないと条件づけたときに、既に吾々は絶対自由の境地から一歩踏み外したと云うことになります。】と書かれています。その法語五月八日には

【「いさかひはげにやまびこのこだまかやわれしづまればむかふおとなし」これは心学の歌である。『和』と云うのは、我と彼とがひとつであることを体得することである。
向こうが悪いと思い、此方が善いと思っている間は、彼と我とは別のものであると思っているから、『和』が成立せぬのである。】と書かれています。

雅宣先生がどうだこうだという前に、原理主義者といわれる人達は雅春先生を信じるというのであれば、上の雅春先生の言われることを自分の信じる原理主義に則り実践することが
求められるのではありませんか。「復興G」のはんどるは復興を目指す爺さんの謂いでしょうか?実践しない信仰者に対して原理主義の称号は云い得てますね。

復興Gさんが榎本講師の文を紹介されていますが、「光のある内に」をなかなかのものと思い読んだことがあります。
しかしながら、ここに書かれているものを読むにつけ、上の二つの引用文の心境には隔たりがあると感じます。

『其の儘の真理』とは如何なるものとお考えですか?組織運動の中での其の儘の生き方とは?

私も時間の少ない生活をしていますので早いお返事は出来かねますが。


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