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Web誌友会 板/2

2116志恩:2013/06/25(火) 06:46:39 ID:.QY5jUA6
Web 宇治別格本山E−VOICより


無の門關に坐して〜その4 
  “無”と言えるすべては無く、その無しも無く〜 【窊】

榎本恵吾


副総裁先生(当時の、雅宣先生)は数年前の代表者会議の結語において、「この運動方針も 物質であるから現象であるということが出来るのでる」と言われているのである。
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運動方針とはそこに書かれていることと、それをもとに展開するすべてが 含まれているのである。

それが現象である。ということは運動方針は“すぎゆかん”ということを表現しているものと拝察されるのである。

現象であるということは“無い”ということなのである。

その後、全国教修会においてはハッキリと「人類光明化運動は現象であります」と言われているのであり、生長の家人類光明化運動を代表しているお方が、
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そのように述べられていることは、

光明化運動自身が“私は無いのである”との、消え切りの、澄み切りの、聖の聖なる鳴りひびきがそこに現成していることを示している、
と拝察されて来るのである。

光明化運動が消え切りの澄み切りであることは、天地一切萬物を最大に受け入れているということを意味しているのである。

最大なるものは神である。

萬物を“無の門関”を通して神として受け入れていることを意味しているのであり、天地萬物への礼拝運動が、生長の家人類光明化運動であるということが言えるのである。

それは、今ここにおいて現成している光明化運動のすがたであるのである。神あるいは時空を超え、自己を超え、すべてのすべてを超えてここに現前し、
厳存ましましているのである。

神は今であり給うのである。神が今であり給うことは、今ここが天国極楽浄土であるということにほかならないのである。

天地一切は光りであり、この運動方針も光りであればそれを発見しているところの、人間もまた神の子であり、神であり、光りであり給うのである。

神であり給うということは、その人はその人ではないということなのである。 その人ならざるその人から運動方針を読み上げているのである。

“私は神である”ということは私は無く、神である。荘厳なる姿そのままが鳴りひびいているのである。

神は一人ですべてのすべてであり給うのであり、“神の外にあるものはなし”であり給うのである。


“今こそ自然から学ぼう”ということは、

自然なることとは如何なることであるかということから 出発しなければならないのである。

自然の自然なるものとは神である。自然から学ぶとは神から学ぶということにほかならないのである.
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自然の自然なるもの、神から生れ出ているのである。

自然から学ぶということは、神である自分から自分を学ぶということでなければならないのである。
それが自然の自然なることなのである。

その限りない懐かしさと新しさをもって出発して行くことが、「自然から学ぼう」という言葉を生んでいると想われるのである。

それはただ単なる自然の人間に対する効用性の研究ということから出て来るだけの言葉ではないということなのである。

さらに懐しさは愛という聖なるものへと昇華しているものなのである。(以下、略)

216 2005/7/27
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