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Web誌友会 板/2
2110
:
復興G
:2013/06/23(日) 06:37:19 ID:AB6RqYXc
『神癒の展開としての人類光明化運動』
―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
榎 本 恵 吾
四 (1日1文ずつ謹写掲示。cf.
>>2084
)
さて、今世紀最大の出来事はなんであったか。それは生長の家の出現であり、尊師谷口雅春先生が降誕されたこと、そしてご昇天されたことであると、私たち生長の家信徒は誰しもがうなずけることに違いないのである。
「生長の家の出現は、宇宙はじまって以来の荘厳である!!」
と思わず感嘆した人があったと聴くが、その人は、尊師の全宇宙の救済について、
「それをやったのが私だよ」
「それをやったのが生長の家だよ」
というひびきの中身にふれた人であったのであろうと想われて、うらやましい限りである。
さて、イエス・キリストの十字架上の昇天には色々の意味、解釈があってその違いによって宗派が別れているほどであるときくが、その一つであろうか。イエス・キリストは弟子の前で色々な奇蹟を起こされたのは、弟子たち一人一人の中に、神がましまし、そしてみ業を為し給うのであり、「あなた方一人一人の中に神と神の国があるのである」 と弟子たち一人一人の内なるものを祝福し、拝み給うたのであった。
しかし、弟子たちには、その師であるイエスがみ業をあらわせばあらわすほど、「あれは、イエスだからこそ出来るのである」ということになってしまって、尊敬はするが自分のことではないことになってしまったのであるという。
そこでイエスは、弟子たち(人類を含む)の前から、自分は一度は姿を消す必要がある。そして弟子たちが肉体上の自分(イエス)の方ばかりを向くのではなく、自分の内を向くようにとの願いをもって十字架につき給うたのである、という解釈である。
これによると十字架のお姿そのものが、弟子たちの内なるものへの拝みであり、祝福であり、愛なるものの燦然たる輝きそのものであるということになるのである。
さて、尊師谷口雅春先生は卒然として九十二歳でご昇天あそばされたのであった。そして肉体のお姿を消し給うたのであった。これは、
「私の方ではない、皆様お一人お一人の中ですよ。自分の内を拝みなさい」
との拝みのお姿であったのであると拝察するのである。最後に肉体をお消しになることによって、そのお消しになったそのことが、肉体を捧げるという姿において最大の拝みを成就され給うたのであるということである。
自分の片腕を燃やして世界を明るく照らしたという御仏がいまし給うたという仏教の話があるが、尊師谷口雅春先生は、ご自分の肉体すべてを捧げ、お使いになって、それを消し給うということによって最後の拝みを成就し給うたのである。
それはまことに燦然とした愛なるものの輝きそのものであったのである。そしてそれは今も尚、さらに私たちの中において輝きを増されつづけているのである。
谷口雅宣先生が、そのご昇天の日、山の上に夕日が燦然と輝いているのを、たしか総本山に向かう車の中でごらんになられて、
「尊師はあの山の上にいましたのである」
という感慨をお述べになっておられるのを拝読させて頂いたことがあったが、まことに燦然たるものを尊師谷口雅春先生のご昇天のことの中に確かめられておられたのである、と拝察せずにはいられないのである。
「すべてを為し終えた気がする」
と、尊師谷口雅春先生は 『生命の實相』 を完結せられた時にお述べになっておられるが、その意味は、ただ単に 「私の役目を為し終えた」 というようなある部分としての役目を果たし終えたというようなことでは決してなくて、釈尊が
「かつてすべてのものをして吾れと等しくしたいという願いを起こしたが、その願すでに満足せり」
と宣(の)り給うたことを、尊師谷口雅春先生は全宇宙の一人の病むものなき救済について、
「それをやったのが私だよ」
「それをやったのが生長の家だよ」
という中身をもって宣り給うたのであった。それが唯神實相、實相独在論の威厳であることを銘記しなければと想うのである。(1998.7.4)
○
榎本恵吾先生もまた、自分の肉体すべてを捧げ、使い切って、肉体を捧げるという姿において、
「皆様お一人お一人の中ですよ。自分の内を拝んでください」 という最大の拝みを成就されたと思われます。(復興G)
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