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Web誌友会 板/2
1692
:
志恩
:2013/06/08(土) 07:19:24 ID:.QY5jUA6
この昭和10年(1935年)7月の、2、26事件のクーデータが起きる動機となるものには、
昭和6年と昭和9年の大凶作の深刻化が 指摘されております。この大凶作は、現在の飽食の時代に生きるわれわれには、想定外の想像を絶する深刻な問題だったようです。
私が,先日読みました浅田次郎著「壬生義士伝」には、慶応時代の、特に東北地方、岩手県の庶民の暮らしが表現されてましたが、やはり大凶作があり、食べ物を得るための、
わずかな金銭を得るために、人を斬ることが、日常茶飯事のように行われていた 信じられないような 恐ろしい時代でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
注:)1
青年将校たちの決起の背景を松本清張は 「 昭和史発掘( 8 )」の中で次のように書いています。
農村の疲弊は、慢性的に続いていた農業恐慌の上に、更に昭和 6 年と昭和 9 年に大凶作があって深刻化した。農家は蓄えの米 を食い尽くし、欠食児童が増加し、娘の身売りがあいついだ。
農村出身の兵と接触する青年将校が、兵の家庭の貧窮や村の 飢饉を知るに及んで軍隊の危機を感じたというのはこれまでくどいくらい書いてきた。
そして青年将校らは考えた。結局独占資本的な財閥が私利私欲を追求するために、こうした社会的な欠陥を招いたとし、 それは政党がこれらの財閥の援助をうけて庇護し、日本の国防を危うくする政策を行っているからだとの結論に達した。
注:2)
反乱部隊の幹部( 将校 )について父親の職業を調べた資料がありますが、それによれば調査可能な 14 名のうち 11 名までが武官であり 、長年軍務に服した後はその多くが退役少将として、恩給で十分な生活を保証されていた恵まれた地位にありました。( 軍事史、藤原彰 )
注:3)
[ 東北地方の惨状 ]
岩手県では農家 7 万 7千戸( 県人口の約 40 パーセント )が、生活救済 ( 支援、保護 )を必要となりました。
昭和 9年( 1934年 )10月12日から11月1日まで報道された東京朝日新聞の連続記事 「 東北の凶作地を見る 」 によれば
凶作の最激甚地、岩手県の 九戸 ( くのへ )郡や 二戸 ( にのへ )郡の山村では、
稗( ひえ )、粟( あわ )さえも尽きようとし、楢の実( ドングリ )が常食となり、上閉伊( かみへい )郡では 7千5百戸のうち、6千戸 が救済を求め、
附馬牛 ( つけまうし )村では農民が鶏の エサ であるふすま( 小麦の皮 )や 稗( ひえ )のぬかを買い、練り物にして食べていた。県下の10月現在の欠食児童は 2 万 4千名 を数え、12月には 5 万名 を超えるものと予想された。
注:4 )
写真は女衒 ( ぜげん、人買い )に連れられ売春宿に身売りされた気の毒な少女や娘達ですが、当時の農村の貧困、疲弊を示す具体的数値として山形県警察本部保安課による調査資料があります。それに依れば、
昭和 9 年1 月から11 月までの間に、県内での娘身売りの数は 3,298 名で、 内訳は芸妓 249 名 、娼婦 1,420 名 、酌婦 ( 公娼に対して私娼のこと ) 1,629 名 でした。
同じ年( 昭和 9 年、1934 年 )の10月10日現在の青森県の資料によれば、身売りしたもの、芸妓 405 名 、 娼婦 850 名 、酌婦 1,024 名 で、
これ以外に離村した女子は女給として 945 名、女工 1,427 名、女中その他の 2,432 名があり、合計では 7,083 名 でした。 ( 中央公論、昭和 9 年、1934年 12 月号による )
農家は凶作がもたらした飢餓と貧困にさいなまれ、青田を売り、娘を売り、しかも子は飢えに泣く状態でした。
掲示にある伊佐沢村とは、現在では山形県 長井市 上 ( 下 )伊佐沢に属します。
注:5)
青田売りとは経済的に困った農民が未だ稲が青い時期に、生活資金欲しさから米の収穫を見越して先売りすることで、相手から安く買い叩かれるのが普通でした。
その当時、社会主義者の山川均 ( ひとし、1880〜1958年 ) は雑誌 「 改造 」 に、「 ふとんのある農家は 一軒も無いといっ てもいいだろう 」、と農村の窮状を発表しました。
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