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Web誌友会 板/2

1655復興G:2013/06/07(金) 21:05:30 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 2.26事件で決起した青年将校たちは、自分たちは「君側の奸」を斬って天皇をお守りするために決起したので、天皇にお喜びいただけるものと信じていた。

軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島陸相名で告示が出された。

一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

この告示は、二、の「真意」というところが「行動」に差し替えられて伝わり、決起将校たちは自分たちが認められたと思って喜んだが、豈計らんや、この事件に対する陛下の憤りは深く、特にその後、二ヶ月余を経た同年5月1日に至ってもなお、

 「今次東京に起これる事件は、朕の憾(うら)みとするところなり」

 という激しい勅語が下されたほどであるから、自分たちの忠誠を信じて疑わなかった叛乱将校たちは、全く夢想だにもしなかった逆徒の汚名を着せられ。秘密裁判の結果、その心事を国民に訴える機会も与えられぬままに、銃殺されてしまったのである。

 以下、橋本徹馬氏の自叙伝より、抜粋転記させて頂きます。

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  湯浅内大臣と筆者との争点(自叙伝より)

 かくして叛乱将校たちに対する、秘密裁判(後段紹介)が進行中の或る日(昭和11年5月のこと)、私は湯浅内大臣に面会して

「今回賜った、朕の憾(うら)みとする処という勅語の奏請者は誰であるか」
と問うと、「それは広田内閣が奏請したので、私の与からぬ処であるが……あの勅語に対してあなたに意見があるなら、試みに私が承りましょう」といわれたので、私は詔勅を論議することの不敬を謝した上にて「ああいう勅語を奏請するのは間違いであって、非常に悪い影響を及ぼす」意味のことを述べると、湯浅内大臣は、「憾みとする処とは、遺憾に思うというところである。あなたはああいう事件が起こったのを遺憾に思わぬのか」といわれた。私はいった。

 「遺憾なことは相違ないが、詔勅はその影響する処を考えて奏請すべきものである。あれでは叛乱将校たちに対して、陛下の深い御憎しみがかかっていることが観取されるから、所謂皇道派と統制派との争いが一層ヒドクなる。それが下に至るほど鋏状に甚だしくなってゆくことを、お考えになりませんでしたか」(中略)

「それではどういうお言葉ならよいのか。あなたの考えをいってごらんなさい」と湯浅内大臣がいうから、私は御免を蒙っていった。
「国家に不祥事が起こった時には、如何なる場合にも陛下は、

『朕の不徳による』
と仰せられるようでありたい。今回のことでもあの詔勅によって軍部内の二派の争いが一層ヒドクなるが、あれが若し『朕の不徳による』というお言葉であったならば、皇道派も統制派も共に恐れ入り、理非は何れにあるにしても速やかに相克をやめねば、陛下に申し訳ないという考えになるでしょう」

 湯浅内大臣はそれでもなお「遺憾に思うというのがなぜ悪いか」と口の中でつぶやいていた。
<つづく>


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