したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

Web誌友会 板/2

1654復興G:2013/06/07(金) 21:04:43 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 橋本徹馬氏は当時50歳弱、政治評論家として国を揺るがす朝野の政治家、軍人との頻繁な交流もあった。

 同氏『自叙伝』(「私の昭和史」)によると、当時の青年将校たちは北一輝(きた・いっき)の感化を受けつつあり、純真にして無垢の将校を思うにつけ、その危険性を第一師団長柳川将軍と語ったことがあるという。

≪北 一輝(きた いっき1883-1937)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。
明治維新の本義は民主主義にあると主張し、明治憲法における天皇制を激しく批判した。 すなわち、天皇の国民ではなく、国民の天皇であるとした。国家体制は、基本的人権が尊重され、言論の自由が保証され、華族や貴族院に見られる階級制度は本来存在せず、また、男女平等社会、男女共同政治参画社会など、これらが明治維新の本質ではなかったのかとして、再度、この達成に向け『維新革命』『国家改造』が必要であると自著で主張した。当時の内務省は、北の考えを”危険思想”とした。後に、北に直接の関与はないが、この主張等に感化された若手将校たちによる2.26事件で、理論的指導者の内の一人として死刑判決を受け、銃殺刑に処された。
よって、北が、生前にその『維新革命』『国家改造』の実現を見ることはなかったが、8年後、連合国軍が、軍国主義を突き進む日本を武力で倒し、北の主張の多くは、占領政策を実施したGHQ主導による日本の戦後改革で実現されることとなった、とも言われる。≫

 そもそも2.26事件の事件の背景としては、陸軍部内に 「皇道派」 と 「統制派」 と呼ばれる二つの派閥の激しい相克があった。

 「皇道派」は、北一輝らの影響を受けて、天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、対外的にはソビエト連邦との対決を志向した。「統制派」は皇道派青年将校と異なり、陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な形で、列強に対抗し得る「高度国防国家」の建設を目指した。陸大出身者がほとんどいなかった皇道派に対し、陸大出身者が主体で軍内の規律統制の尊重という意味から統制派と呼ばれる。皇道派の中心人物である荒木貞夫が陸相に就任した犬養内閣時に断行された露骨な皇道派優遇人事に反発した陸軍中堅層が結集した派閥とされるが、皇道派のような明確なリーダーや指導者は居らず、初期の中心人物と目される永田鉄山も軍内での派閥行動には否定的な考えをもっており、「非皇道派=統制派」とする考え方もある。

 この二つの派閥に分かれて険悪な雰囲気があった。
 そうした中で、

 1.浜口内閣の不景気対策以来の国政宜しくないため、入営兵士の中、家庭が窮乏する兵士も多く、甚だしきは日曜日に紙屑拾いまでして郷里の家計を助けている兵士たちさえあるという有様であった。こういう事情が上官である青年将校たちを刺戟したこと。

 2.「国体明徴運動」に対する当時の政府、元老、重臣等の態度を許し難いと思ったこと。

 (「国体明徴運動」とは、幕末以来、記紀神話を基礎としながら、日本国の特色は万世一系の天皇をいただく神国である点にあると主張する国体論が起こってきたが、それをうけた明治以後の国体論は二つの方向で展開された。第1は,1890年の教育勅語が、忠孝の道を〈国体の精華〉としたように、天皇崇拝を国民道徳の根幹にすえようとする方向であり、第2は、国体を統治権の所在によって分類し、大日本帝国憲法は天皇を絶対とし統治の全権が天皇にあると規定している、という憲法解釈を軸とするものであった。)


 3.陸軍部内の統制派が国体明徴運動について、時の政府や元老重臣等と妥協しつつあったこと。さらには皇道派を抑えようとしたことにも憤激していたこと。

 4.昭和8年3月、日本の国際連盟脱退後、日本の国際的立場が憂えられ、大戦争に至るやもしれない、時局対処上、危険至極であると考えたこと……等である。
<つづく>


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板