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Web誌友会 板/2

1652復興G:2013/06/07(金) 18:42:56 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 この世界は、仏教では、業の流転(るてん)の世界という。業は業のもつ因果の法則によって、業自身が流転して本来の無に帰って行く。それはそれにまかせることです。

 すべての争いをやめて、自と他が一体だということがわかったら、心というのはさっき申しましたように、男もなければ女もない、神様の通帳は一つなんです。

 お互いが無限を持っている、そこにお互いが自分を振向ける。これを廻向(えこう)と申します。これが即身成仏――この身このまま仏ですね。私たちは五尺何寸というようなチッポケなものじゃないですよ、皆さん。宇宙いっぱいに遍在する、その自分を男にし、女にし、そうやって縛っていた。その縛りを解きまして、もうひとつこっちへもってきて、この「有限」というのを見なおす。私は男だ、私は女だ、親は親であるし、子は子、夫は夫、妻は妻と、そこにはおのずから秩序がある。その秩序に従った生活が、自と他が一体で、「差等ある平等」の生活となる。そうしますと、現象と実相が別々でなく、現象即実相となる。これが生長の家の生活です。

 ところが、私たちの病気や不幸は一体どこから出てくるか。私たちは自己制約している肉体の自分をもって、自由自在平等をあこがれ、あれもこれもたくさん自分が持ちたいと思い、物に対する執着が出てくるからであります。体に執着をいたしますと、体は病気になる。現象を実在だと思う思いちがいからそういう不調和な世界ができる。

 つねに生活を、正念(しょうねん)をもってすることですね。すると妄念(もうねん)がなくなって、執着がなくなる。

 私たちは宗教生活がそのまま目的です。病気治しが目的でもなんでもないんですよ。結局私たちは、本当の生活ができたら、病気がなくなって、不幸がなくなる。病気や不幸はだれがつくったかというと、だれもつくらない。それは思いちがいなんですね。
<つづく>


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