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Web誌友会 板/2

1473復興G:2013/05/29(水) 22:45:59 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 谷口雅春先生は、塩槌神の化身である。

 だから、われわれは谷口雅春先生を唯一絶対の神として拝み、谷口雅春先生を通さなければ救われない――ともし考えておられる方があったとしたら、谷口雅春先生はお嘆きになるでしょう。

 『生命の實相』第13巻「倫理篇」《第2章 第一の神性隠蔽》の中に、次のように記されています。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

     宗教争いは偶像崇拝より起こる

 (前略) 人間を和合させる働きをせねばならぬ宗教でさえも、肉体キリストという物質的顕現に捉えられていましては、顕現せられましたそれぞれの応身または報身は異なりますから、互いに信者争い、領分争いをしなければならぬようになってくるのは当然であります。

……つまり、すべての争いの第一の萌芽は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるのであります。すなわち「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」と「生長の家倫理学」は答えるのであります。

 キリストでもこれを肉体イエスという「物質的形体」に見いださず、「アブラハムの生まれぬ前よりわれは在り」といわれた「永遠神性」にこれを見いだし、仏でもこれを肉体釈迦に見いださず、「過去の諸仏は皆わが弟子なり」と阿難に答えた「久遠の釈迦」に見いだし、「生長の家」でもこれを肉体谷口の家に見いださず「すべての教えわれに流れ入りて生命を得ん」と示された「久遠実在の生長の家」に見いだすとき、すべての教えは、ここからあすこまでは自分の領分だなどという縄張り争いをする必要がなくなるのであります。

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 谷口雅春先生は、「皆さんが谷口雅春である。皆さんが住吉大神の全心全霊である」とおっしゃいました。

 そして「至上者の自覚の神示」には、

≪本当の謙遜は『神の自覚』から来る。神を自己の本性に自覚しないものは、いくら謙遜らしく見えても、それは卑屈にすぎない。卑屈と謙遜とを思い誤るな。本当の謙遜とは『自己は神より出でた神の子である、従って神そのもののほか何者でもない』と言う真理を何らの抗らいもなしに承認することである。此の真理を承認するものを謙遜と言い柔和と言う。此の真理に逆う者を傲慢と言うのである。すべての傲慢と意地張りとは『吾れ神なり』の真理を承認しないところの根本傲慢より分化し来るのである。≫

とありますから、谷口雅春先生が

「皆さんが谷口雅春である。皆さんが住吉大神の全心全霊である」

とおっしゃったら、

「ハイ、ありがとうございます。」

というのが謙遜なすがたであり、

「そんなことはありません。私はまだまだ修行中の身で、谷口雅春先生とは月とすっぽん、天地の差があります」

などと言ったら傲慢ということになります。

また、『実相と現象』には

≪マタイ伝の二十二章で、イエスは
 「『なんじ心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし』これは大にして第一の誡命(いましめ)なり」といっているのであります。それでここに「主なる神」とありますから、人間の方は僕で、主人であるところの神様を愛するのであるかというと、そういう意味ではないのです。「汝、イエスの神を愛すべし。」とはいっておられないのです。すべての人間には、自己の内に神が宿っているということをイエスは認めて、「汝の内に宿っている汝の主なる神を愛すべし。」と、このように言っておられるのです。≫(抜粋)

と、書かれているのです。

同書「はしがき」の結びには

≪諸賢が本著に親しまれることにより、“聖なる求め”を放棄することなく、日に日に高きを望み、深きに入りて真理を体得せられんことを、神に代り切に切に望むものである。≫

 と書かれています。それを実行する者が、谷口雅春先生の真の弟子ということになるでしょう。


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