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1418ユタカ:2013/05/27(月) 19:13:07 ID:R1D4Jmeg
実相と現象 はしがき  の続き

昭和四十七年春のアメリカ、カナダ、メキシコの講習旅行の折であった。
『生命の実相』が五十年前に刊行されたとき、聖書型の黒革の表紙には、「生長の家聖典」とのみ記して、著書名はださなかった。表紙の平(ひら)とか扉には、いつの頃からか名が出るようになったが、携帯版の前まで、背文字は一貫して「生長の家聖典」であった。神が私をパイプとして書かしめた聖なる典籍との畏れ(おそ)慎みであった。
『神 真理を告げ給う』の冒頭には、次のごとくに述べられている。
「”わたし”は今まで多くの教祖や哲人を通して人生の意義を説いてきた。君たちのうちには熱心に真理を求めて色々の書物を読み、色々の学者の説を読み、それに基づいて思案をし、既に人生の意義を知ることがが出来た人もある。しかしそんな人は非常に稀であって、大抵は、自分の偏見や既成概念の中を迂路(うろ)チョロしていて、悟ったつもりで実際は悟っていないか、真理なんて求めても到底得られるものではないのだという絶望感で、”聖なる求め”を放棄している人もある。そのような人たちに”私は”今ふたたび真理を知らせてあげたい愛念によって、今此処に谷口雅春を通して真理を説こう」とおもうのである。
更に次の節には、
「・・・・・・それらの宗教教祖や碩学や大哲の中に”わたし”は宿って、人々を導くために”わたし”は書いたり、説いたりしてきたのである。
真理は人間の肉体から生まれて来るものでも、人間の脳髄細胞から生産されて来るものでもなく、實にそれらの人々に宿っている”わたし”がそれを説いているのである・・・・。」

「しかし”本当の教祖”と言うべき”真理の啓示者”は””実相世界”にある”神”のみである。イエスキリストも『師というべきものは、唯、ひとり天の父のみである』といっているし、谷口雅春も、”自分は教祖ではない。實相世界に生長の家本部はある”といっているのである。

この ”わたし” は勿論いうまでもなく神である。

このような文章ーーー神の言(ことば)に接する毎に、私は畏れ平伏すのである。そして図り知れない神のはからい、摂理、お導きに谷口は十二分にお応えし得たであろうか、この九十余年の生を以て些か(いささ)の悔いることなく儘し得たであろうか、と魂の打ちふるえるのを覚えるのである。  そして谷口に賜った神々の大いなる恩寵に、唯々感謝合掌、悦びが悦びの波紋が見渡す限り広がる様を、心眼に拝するのである。

本著作集も第4巻となり、いよいよ佳境に入った感がある。生命の實相哲学の骨格をなす唯神實相論の霊々妙々の極意を、極めて平明に、話言葉を以て表現してある。先の海外巡錫の時よりも若い時代の著述が多いが、もとより谷口の脳髄智、谷口の力(にんべんに両)で構えて説いたものではない。

いずれもその折々に 最も相応しい神々の指導助言の賜物である。 万般の奇跡が続出するのも、故なしとしない。

諸賢が本書に親しまれることにより、”聖なる求め”を放棄することなく、日に日に高きを望み、深きに入りて真理を体得せられんことを、神に代わり切に切に望むものである。 

    以上 實相と現象 はしがきより 謹写


時代、時代に 現れて来られるのは、神様のご意思であって、谷口先生を通して書いたり説いたりして下さっておられるので、新しい時代には、また神様がそのようになさる事と想像できませんか?

運動に関しても、生著の家は神意を実現し宇宙を救済する運動で(小は一木一草から国家救済を経て全人類を救済する)あるから、その真髄が「相互礼拝」であるとしたらそれに向かって階段を上っていくと景色が自然に変わるというように目的は変わらないが状況は変化しそれに対応するための変化はあると思う。目的は変わらずの前提である。



以上、ここまで、志恩さま、 間違えていたら教えてください。


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