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Web誌友会 板/2

1280復興G:2013/05/21(火) 12:40:30 ID:AB6RqYXc

<昭和15年4月9日 名古屋公会堂に於ける谷口雅春先生ご講演 つづき 19>

 梶喜一郎さんは、その鴨居に掛っている釈迦牟尼仏像の写真を見ては私の顔を見、左見右見(とみこうみ)してお

られますので、私は「この人は一体何をしているのだろう」と思っていますと、梶喜一郎さんは、鴨

居の額を指して「これは何方(どなた)の写真ですか?」と言われたのです。そこで私は「これはこうこういう

訳で、山本明さんと云う写真屋さんが、大同から石仏を写して来た釈迦牟尼仏の像ですよ」こう言っ

たら、それを又見詰めていた梶さんは「ああわかりました」と言われるのです。何がわかったのかと

思っていますと、「実は今まで私は『生命の實相』を読んで真宗の教が本当によくわかったと思って

悦んでいたのですけれども、唯一つ心に閊(つか)えることがある。それは惜しい哉『生命の實相』に神とい

う字が書いてあるので、どうしてもその神と仏とは別である。やっぱり真宗と生長の家とは此の点で

異(ちが)うから生長の家を信じたら阿弥陀さんに叱られるような気がしておりましたが、昨日軍人会館へ行

って先生の御講演を聴きましたら、その演壇には此処に掲げてあるこの写真の人が講演しておりまし

た。今の肉体の谷口先生の顔とはすっかり異うのです。ですから昨日講演していたこの写真の人は誰

か知らと思って訊きましたのです。

 ところが、いま、これはお釈迦様の像であると言われたので、生長の家の説教をせられるのはお釈

迦様が説いておられるのだ、決して肉体の谷口と云う方が説いているのじゃない。お釈迦様が説いて

おられるのが、これが生長の家であるから生長の家は仏教だと知って私も安心致しまして、生長の家

と真宗とを一緒に信ずることが出来ます。有難うございます」と言われました。あとで承りますと、

梶喜一郎さんはその講演を聴くまでは、左の耳が難聴で電話を左の耳で聴いて、右の手で数字などを

書きとめる時、左耳に受話器を当てても聴えないので弱っていたのですが、講演を聴いて心境とみに

開けた結果左の耳がよく聞えるようになったそうであります。

 生長の家で説教しておられたのが、仏典に現われた釈迦牟尼仏だと云うことになりますと、生長の

家の大神とは釈迦牟尼仏だと云う事にもなるわけであります。併し私が釈迦牟尼仏ではないのであり

ます。私の説くところが釈迦の説かれる真理でありますから、波長が合うところにテレビジョンのよ

うに釈迦の姿が現われたのであります。

 さて奈良の東大寺には大仏像が安置せられておりますが、大仏さんと云うのは、この千葉(せんよう)の蓮華(れんげ)

(千の花弁の附いている蓮華)の真中に毘盧遮那(びるしゃな)と云うところの仏さんがいらっしゃる姿を像にした

ものであります。毘盧遮那というのは、訳すると「光明遍照」という意味であります。「毘盧遮那仏」

と語尾に「仏」と云う字を附けたのは、人格化して「ビルシャナ」を取扱ったので「ビルシャナ」の

本来の意昧は光明遍照と云うことで「光華明彩(ひかりうるわ)しく六合(りくごう)に照り徹(とお)り」と云う意味でありまして、『日

本書紀』にある天照大御神のお姿その儘(まま)であります。それを古代印度の人は古代印度語で言うより仕

方がないから「ビルシャナ」と言ったのです。それを更に重訳する場合には、訳者の心持や時代の宗

教に従って、仏教的な用語を使って、大日如来とか毘盧遮那仏とか言ったのでありまして、「ビルシ

ャナ」そのものには「仏」と云う意味はなく、唯「光明遍照」の中心体という意味があるだけであり

ます。兎も角この「光明遍照」の中心体が宇宙の真中に坐(ましま)すことを、蓮華蔵世界の中心座たる蓮華王

座に「ビルシャナ」坐すと云うのであります。
<つづく>


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