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Web誌友会 板/2

1085復興G:2013/05/08(水) 23:27:29 ID:AB6RqYXc

<昭和15年4月9日 名古屋公会堂に於ける谷口雅春先生ご講演 つづき 4>

 儀式の発生

 その次に儀式であるとか行事であるとか云うのも、最初の届書には「無し」と書いたのであります

が、「無し」と云うのでは宗教団体法の中に入る宗教と認められないので、「やっぱりあると云うこ

とに書いて貰いたい。神想観と云うのがあるじゃないか、あれを書いて置いたら好い。引導文と云う

のもあったじゃないか」と斯う云うように言われるのであります。中々詳しく調べていられるのであ

ります。嘗て『行』誌の前身『生命の藝術』と云う雑誌に、若し今迄祖先から信じている宗教が無い

ところの孤児の生長したような人が誌友になって、自分の宗教としては、「生長の家」のほかに何も

ないから生長の家式に葬送の行事をやってほしいと云う場合に、斯う云う風にやれば好いと言って、

その行事の次第を書いて発表したことがあるのでありますが、そんな古いものまで文部省の係の人は

よく眼を通していられるのに感心したのであります。それから神想観は宗教的行事と認めれば認めら

れぬこともないかも知れませんけども、修養団なんかでも合掌して其の合掌を上下に振動せしむる精

神統一の行事などがあるのに、あれは修養団体と認められ、生長の家は宗教結社と認められたのは、

宗教的信念に導いて行く強さによって区別されたのでありまして、これは生長の家の人類教化力の強

烈さから来たためであって、これは止むを得ないのであります。

 元来、生長の家には、冠婚葬祭その他、色々の人生に於ける儀式には生長の家式と云う型がないの

であります。それは生長の家が空っぽであり、能くものを容るる所以であり、各人の祖先を崇拝、祖

先の宗教遺風を顕彰するのが生長の家の教でありますから、祖先の遺風を捨てせしめず、生長の家独

特のものを主張しないところに特色があるのであります。祖先崇拝の遺風を顕彰せんが為に、生長の

家誌友たるものは、祖先の信じておった宗教の儀礼に随って、冠婚葬祭等は行うべしとしたのであり

ます。これは「教義なき教義」と等しく、「儀式なき儀式」に当るのでありますが、併し、祖先と云

うものがない人が中にはある。先刻申しました様に、孤児とか捨子とかで自分の親が何の宗派であっ

たか知らぬ、自分には在来の宗教がないし、自分は生長の家に入って救われたのだから、死んだ時に

も生長の家で葬式して欲しいと云う人もなきにしもあらずですから、そういう人の為には嘗て『生命

の藝術』と云う雑誌に発表された事もあり、霊を悟りに導く「久遠いのちの歌」と云うのもあり、

聖経『甘露の法雨』『天使の言葉』等と云う詩もありますから、文部省の係官の希望によって、それ

を書いたのです。「今届書に『儀式及び行事』の項にそれを書いて置いたら、お経の読誦や葬祭等の

宗教的行事をやっても構わぬと云うことになるが、教化団体や修養団体で頑張っていたら、若し宗教

的行事をやった場合に当局から文句を言われる惧れがある、そう云う点からも儀式及び行事と云うの

は、今やっている実際と、是から時に応じてやるかも知れないものも書いて置いたら、それはその儘

既得のものとして認められることになるから都合が好いではないか」と、中々深切に言って下さいま

すので、特に生長の家で儀礼を行いたいと云う希望者のためには、生長の家式に『甘露の法雨』とか

「久遠いのちの歌」と云うものを誦(よ)むことがあること、而も生長の家では、霊魂は生き通しであっ

て、肉体は生きていても死んでいても、人間は永遠存続であるから、死後の霊魂を悟らせるために

『甘露の法雨』を誦み聞かせることもあれば生きている人を悟らせるために誦んで聞かせることもあ

ると、その行事の処へ書くことにしたのであります。病人に対して誦んで聞かせる場合は、生きてい

る人の心が悟りを開くように誦んで聞かせるのであって、その病人が開悟の結果、心境頓(とみ)に明朗とな

り病気が治る事実が続々あるのは、これは療術行為ではなく「悟り」が肉体に及ぼす力であります。

<つづく>


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