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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

979うのはな:2013/10/10(木) 17:03:26 ID:6TyiMBAE
       サクラ、サクラ!

 圧倒的多数と数百倍もの兵器、火力を有するアメリカ軍との戦いは、長くても3日だと言われていた。
しかし、守備隊長の中川大佐率いる日本軍は、何と73日間も持ちこたえた。
 27隻の戦艦、駆逐艦からの砲艦射撃と高性能焼夷弾でジャングルを焼き払われ、ペリリュー島は丸裸に。
日本軍は通常の戦闘では歯が立たぬと、500有余の洞窟に立てこもり、ゲリラ戦を展開する。

 昭和19(1944)年9月15日午前8時、オレンジビーチよりアメリカ軍上陸。
一進一退の日米両軍の肉弾戦が行われるも、圧倒的兵力火力を有するアメリカ軍は徐々に日本軍を追い詰める。
補給を一切断たれた日本兵は、粗末な武器を手にし、水と食料もなくなり、喉の渇きと飢えに苦しみフラフラになりながらも戦い続けた。

 11月24日、兵力弾薬は底を突いた。司令部は玉砕を決定。中川大佐、村井少尉、飯田中佐は自決。
「サクラ、サクラ」の電文と共に玉砕。
 11月27日、生き残った兵士55名の万歳攻撃が行われ、日本軍の組織的抵抗は終わった。
なぜ日本兵は命を惜しまず戦ったか?なぜ鬼畜米英と言ったのか?

 それは白人植民地政策を知らずして語ることはできない。
当時は有色人種国家のほとんどは白人の植民地。その政策は残虐そのものに尽きる。
人間を家畜のごとくこき使い、婦女子を犯し、子どもであろうとも虐殺する。

 そのことを日本兵は知っていた。彼らの残虐さを。
「一日でも長く日本を守りたかった。一日でも長く、愛する故郷、愛する女房子供、お父さん、お母さんを守りたかった」
その思いに尽きると思う。

 日本兵の勇猛なる戦いがあったからこそ、敗戦後の日本の国体を守ることができた。
今、私たちが日本人であること、平和で豊かな社会で暮らしていけるのは、先人の尊い命の犠牲があったからだと信じている。
 愛する人を守るために命を投げ出した英霊のみなさんに心から感謝している。合掌!

 大日本帝国の最期 第壱幕 http://www.youtube.com/watch?v=5aowyJM8Cpc

『日本はなぜアジアの国々から愛されるのか』 池間哲郎 著


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