[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
2101-
2201-
2301-
2401-
2501-
2601-
2701-
2801-
2901-
3001-
3101-
3201-
3301-
3401-
3501-
3601-
3701-
3801-
3901-
4001-
4101-
4201-
4301-
4401-
4501-
4601-
4701-
4801-
4901-
5001-
5101-
5201-
5301-
5401-
5501-
5601-
5701-
5801-
5901-
6001-
6101-
6201-
6301-
6401-
6501-
6601-
6701-
6801-
6901-
7001-
7101-
7201-
7301-
7401-
7501-
7601-
7701-
7801-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2
651
:
うのはな
:2013/07/21(日) 14:53:05 ID:zkgxlYEM
日本を頼っていた避難民達
日本が一九三七年八月十七日に、「不拡大方針からの転換」を閣議決定した主な理由は、
邦人虐殺までエスカレートし、上海への無差別爆撃など、中国側の目に余る暴挙に対して、「暴支膺懲」
(中国の悪者を討ちこらしめる)にあったので、民衆(良民)にはすこぶる優しかったのです。
それゆえ、上海から南京攻略戦の総司令官に任命された松井石根大将は、着任早々、次の訓令を出していたのです。
それは「上海附近の戦闘は専ら我に挑戦する敵軍戡定を旨とし、所在の支那官民に対しては努めて之を宣撫愛護するべきこと」
(※戡定=敵を討って乱を鎮めること)だったのです。
松井大将の訓令は、それ以後も徹底を極め、南京城攻略前には、戦時国際法を遵守するために、日本から同行を求めた国際法学者・斉藤良衛博士を
招き、助言を受けて、微細な『南京城攻略要領』を発令していたのです。
実際、南京城攻略戦は、それらの訓令のとおりに実施されましたが、それらの訓令は、東京裁判では一切証拠採用されなかったのです。
ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神 水間政憲 著
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板