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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

5863志恩:2017/01/02(月) 17:09:11 ID:6hRUvSRg
ここで、曵馬野様が大好物の、

仏教の僧侶である「明恵上人」(華厳宗)が 登場!!
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  明恵上人 、登場!!


承久の乱(1221)の2年後、北条義時が亡くなり、その子・泰時が三代執権となりました。
泰時は、人に与えること多く、自らおごることのない誠実な人間でした。

善政に努め、厳正な裁判を行い、高位高官を望むこともありませんでした。
この泰時によって、頼朝以来の武家政治は基礎を確立したのです。


泰時には、明恵(みょうえ)という人生の師がいました。

承久の乱の時、後鳥羽上皇方の兵が、京都栂尾(とがのお)の高山寺に逃れてきました。
寺の僧・明恵は、彼らをかくまいました。そのため北条側にとらえられます。

この時、明恵は泰時に対し、「救いを求める者は、今後も助けたい。
それがいけないというのなら、私の首をはねよ」と言いました。

その態度の情け深く、また毅然(きぜん)としていることに、泰時は感心しました。
そして、後日、明恵のもとを訪れました。

 すると明恵は、承久の乱の処置について、泰時を諫(いさ)めました。
「わが国においては、万物ことごとく天皇のものであり、たとえ死ねと言われても、
天皇の命令には決して逆らってはいけない。

それなのに、武威によって官軍を亡ぼし、太上天皇を遠島に遷(うつ)すとは、理に背く振る舞いである」と。
 乱の後、北条氏は、天皇を代え、三上皇を島流しにしました。

国家権力を掌中にした北条氏に対し、ものを言うことのできる者はいませんでした。

しかし、明恵は畏れず、為政者の泰時を叱(しか)り、日本の国柄を説いて武士のあるべき姿を諭したのです。

泰時も、乱の際の父・義時との問答(註 1)に見られるように、もともと尊皇の心をもっていたので、
明恵の言葉は痛く響くものがあったのでしょう。

以来、泰時は明恵を人生の師と仰ぐようになったのです。

 続く


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