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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

5860志恩:2017/01/02(月) 16:49:52 ID:6hRUvSRg
=承久の乱について:=(天皇により、「徳」のある人と ない人があったことがわかります)

鎌倉幕府から実権を取り戻そうと、
⭕後鳥羽上皇は、討伐の院宣(いんぜん=上皇の命令)を発しました。承久の乱です。
これに対し、抵抗を正当化した
⭕北条義時・泰時父子は、武士団を指揮して官軍と戦います。

幕府は官軍を連破し、泰時は出発後20日目には京都に入りました。
この勝利によって、皇室に刃向かう者は必ず敗けるという古来の観念は破られました。

北条義時・泰時は、後鳥羽院ら三上皇を島流しにし、天皇の周囲の有力者を除いて、仲恭天皇を退位させ、
⭕後堀河天皇を擁立しました。

臣下が天皇を力づくで替えてしまうというのは、前代未聞の暴挙です。それゆえ、承久の乱は、日本の国柄を考える上で、
非常に重要な事件なのです。

この事件以前の日本人は、「日本人民の尊皇心は当時に在りても、実に一種の宗教なりき」と明治の史論家・山路愛山が言うように、
皇室に対して絶対的な崇敬を持っていました。

天皇は、生来、常人を超えた神秘的な能力、カリスマがあるとして畏敬を受けていたのです。
皇室は神の子孫だから神仏が加護しており、皇室に刃向かって兵を挙げると必ず敗れる、と思われていました。

臣下は、天皇の命令には絶対に逆らうことができない。背くことは人倫にもとる行為だと信じられていました。
ところが、北条氏によって、この観念が破られたのです。

イザヤ・ベンダサン(山本七平)は、承久の乱によって天皇の在り方が変わったとし
これ以前を「前期天皇制」、以後を「後期天皇制」と呼ぶほど、この事件を重視しています。

承久の乱以後、天皇はもはや血統と神器だけでは、権威を保てなくなりました。
つまり、天照大神の子孫である神武天皇の血筋を引いており、

⭕また天照大神から授けられた三種の神器を持っているだけでは、十分ではないのです。

⭕ そのうえに、天皇が天皇にふさわしい 徳を 備えていなければ、崇敬されなくなったのです。


保元・平治の乱以後、世の中は大いに乱れました。
そこに秩序を回復したのは、
⭕武士の力であり、幕府は善政に努めていました。

もし幕府をなくして、朝廷による政治に戻そうとするならば、幕府以上の政治を行うのでなければなりません。
この点、承久の乱を起こした後鳥羽上皇は、君主としての徳に欠けるところがありました。
男女の道にもとる点があり、実務的な政治能力も不足していました。

⭕南北朝期の南朝の指導者・北畠親房は、鎌倉幕府は善政を行って特に罪科はなかったと認めており、
それなのに幕府を倒そうと戦いを起こしたのは、
「上(かみ=後鳥羽上皇)の御科(おんとが=過失)とや申すべき」と『神皇正統記』で批判しています。
江戸時代には、新井白石が、後鳥羽上皇は「天下の君たらせ給ふべき器にあらず」と言い、
勤皇家の頼山陽でさえ『日本政記』で、上皇は「軽挙妄動」したのであって「志ありて謀(はかりごと)なし」と断じています。


さて、承久の乱で天皇を交代させた北条義時は、そのことによって天皇の権威を引き下げる結果となってしまいました。
しかし、義時には皇室そのものを滅ぼそうとか、自らが皇位に就きたいという考えは、全くありませんでした。
義時は、幕府が実権を保つことのできる体制を作れれば、それでよいと考えたのです。

それどころか、北条氏は、朝廷から征夷大将軍という官位を受けられなければ、幕府を維持することができません。
朝廷の権威は、幕府の存立に不可欠なのです。源頼朝以後、三代実朝で源氏の嫡流が絶え、北条氏は将軍に貴族や皇族を招いていました。
摂家将軍・親王将軍です。このような史実に、わが国の国柄の特徴が表れています。

⭕承久の乱を通じて、武士は政治権力を保持し、幕府の基礎は確固となりました。

⭕このことは、わが国に意外な幸運をもたらしました。
というのは、その約半世紀後、⭕蒙古が 襲来したからです。
その際、武家政権が 奮戦したことによって、わが国は 亡国の危機を免れることが できたのです。


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