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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2
493
:
うのさん
:2013/06/04(火) 23:46:07 ID:HRiaVPh.
>>492
藍綬褒章授与の背景
野村大臣を動かした、古賀手ずからの「官有地拝借御願」の冒頭のくだりは次の通りです。
「私儀国内諸種ノ事業ノ日ニ月ニ盛ニ赴キ候割合ニ、大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係ラズ水産業挙ラザルハ、
予テ憂ヒ居候次第ナレバ、自ラ帆シュウノ労ヲ取リ明治十二年以降十五年ニ至ルマデ、或ハ琉球ニ朝鮮ニ航シ専ラ海産物ノ探検ヲ致候。
以来今日マデ居ヲ沖縄ニ定メ尚ホ其業ニ従事致候」
ここに見られるように、古賀の真意は「大洋中ニ国ヲ為ス国柄ナルニモ係ラズ水産業挙ラザル」状況を打開すべく、尖閣諸島の開拓に当りたいとする点に
ありました。そのために彼は南西諸島に骨を埋める覚悟を決め、申請の二ヵ月前に本籍を沖縄県那覇に移したほどです。
この冒頭の文に続いて、既往十年余に及んでいかに尖閣諸島の開拓に悪戦苦闘してきたかを綿々と綴っています。
とりわけ、無尽蔵の魚介類のみならずアホウドリが棲息する貴重な島であり、ヨーロッパ諸国から珍重するこの鳥の羽毛は我が国の海外輸出に大いなる貢献をなすもの
と説き、この島に最も精通する自分に本格的な開発の許可を与え賜らんことを、と熱誠を込めて訴えています。
許可が下りるや、開発は飛躍的に進みました。家屋の建築や井戸の掘削、開墾によって生活の基盤を築いて人を移住させ、魚介類の加工工場や羽毛製造所その他多岐にわたる施設を
設けて発展するのです。
明治三十三(一九〇〇)年に開かれたパリ万国博覧会では、尖閣諸島などで製造した真珠や貝殻類を出品し、見事銅賞を受賞。明治三十六年の内国勧業博覧会では、出品の真珠二点を
皇太子殿下が御買上げになるという栄誉にも浴しています。
明治四十二年、古賀の尖閣諸島をはじめとする目覚ましい開拓事業に対して藍綬褒章が下賜された背景は、以上の業績が評価されてのことでした。
中国も認めていた日本領有
大正七年に古賀辰四朗は六十三歳で死去しますが、この壮大な事業は長男の善次が継ぎました。
しかし、大正十五年には三十年に及んだ借地期限も切れてしまう。善次はしばらくの間、借地料を払って経営に当たって
いましたが、昭和六年に払い下げを申請し、ついに翌年許可を得ることとなります。
この時に尖閣諸島のうち魚釣島を含む四島が善次の所有となったのです。
以上の歴史を前にして、なおかつ中国政府及び台湾の一部勢力が尖閣諸島の領有を言い募るのであれば、善次が遺した次の証言(前掲)を
刮目して見よといいたい。
「大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列島沖合いで難破しました。そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と三十一人の乗組員を助けて
石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。私だけでなく、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。
翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。その宛名は、日本帝国沖縄県八重山群島尖閣列島でしたよ。いま
中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になってい、あす。個人からの手紙ではありません。政府としての感謝状なんです」
ここに紹介された中国政府から贈られた「感謝状」は現在も保存されています。今を遡ること九十年以上も前から、中国は尖閣諸島は日本の領土であると認識していた
決定的な証拠にほかなりません。
こうした事実にもかかわらず、中国や台湾の一部勢力が何故領有権の主張を始めたのか。それは、昭和四十年代後半の国際連合機関による海底調査で、この一帯に豊富な
海底油田の可能性が取り沙汰されるようになったからです。以降、尖閣諸島周辺に侵犯を繰り返す暴挙が続いているのです。
重ねていいたい。尖閣諸島開拓のパイオニアは我が国の古賀辰四朗・善次父子だったのです。
この先覚者の偉業を思う時、直面する領土侵犯は忽せにできない課題として我々に迫ります。
けっして対岸の火事ではないのです。
子供に読み聞かせたい 『日本人の物語』 占部賢志 著
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