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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2
492
:
うのさん
:2013/06/04(火) 21:00:17 ID:6wcvlhrI
尖閣諸島開拓に献身した古賀辰四朗・善次の親子鷹
我が国の尖閣諸島沖に侵入した中国漁船が、停船を勧告する海上保安庁の巡視船に衝突してきた
事件は記憶に新しいところです。そこで当欄では、そもそも尖閣諸島経営の先駆者とは誰だったのか、
その知られざる横顔を紹介しておくことにします。
実は尖閣諸島にはれっきとした日本人の開拓者、所有者がいました。明治以来、長い間におよんで
古賀辰四朗及び子息の善次、その後は善次の妻がこの島を守ってきたのです。
古賀辰四朗が沖縄に来島したのは明治十二(一八七九)年、二十四歳の時です。
爾来、石垣島に古賀商店を開いて海産物を取扱い、尖閣諸島の開拓をはじめ多くの功績を残し、明治四十二年には
藍綬褒章を下賜されたほどの人物でした。
古賀は、安政三年に福岡県上妻郡山内村(現在の福岡県八女市山内)に誕生しました。
『沖縄近代史事典』には、「家は代々中農であり、沖縄へは八女茶を商いに来た」とありますが、これを裏付ける史料はありません。
たしかな事実は、兄が福岡から大阪に移って古賀商店を開店。続いて辰四朗も上阪して経営に参加したことです。
なお、古賀が沖縄で活動し始めた明治十二年以降の消息については、藍綬褒章下賜の際に作成された資料「古賀辰四朗へ藍綬褒章下賜の件」に
明らかです。沖縄の廃藩置県は明治十二年、琉球藩を廃して沖縄県を設置しました。この資料によれば、同年五月に古賀は沖縄に移って海産物を扱う店舗を構え、
みずから周辺海域の調査に乗り出しています。
当時の沖縄では、海洋資源は未開拓の状況でした。例えば、貝類は中身を除いて貝殻のたぐいは捨てていたといいます。
したがって、工業用として貴重な夜光貝や高瀬貝などの貝殻は放置されたままだったのです。
この宝の山を目の当たりにした古賀は、「本島ノ海産物ヲ採収シ、之ヲ利用シテ国家ノ福利ヲ増シ、県民ノ経済ヲ進メザルベカラズ」と
決意を固め、果敢に開発に乗り出すのです。
夜光貝は貝ボタンの原料としてヨーロッパでは重宝されていたし、明治九年にフィラデルフィアで開催の万博博覧会に出品された我が国の貝殻加工品は
世界から高く評価され、買い手がつき始めた頃でした。読みは当たりました。古賀商店は徐々に繁栄の道を辿っていきます。
ただ、彼は利潤追求のみに汲々としたのではありません。胸中には海洋国家日本の開拓を先んじようとする雄図が秘められていました。
沖縄周辺の海域には前人未踏の群島が多く、これらの島々に熱い眼差しを注ぎ、南島一帯の探検に臨みます。その辛苦経営の消息を前述の資料はこのように伝えています。
「・・・爾来三拾年間ノ星霜ヲ此ノ目的ノ為に消費シ、其間幾多ノ辛酸ヲ嘗メ艱苦ト闘ヒ経営ノ多クヲ尽シ、以テ本県人民ニ海産業ノ有利ナリヲ知ラシメ、兼ネテ県下ノ
無人島タル尖閣列島ノ経営及ビ沖ノ神島ニ於ケル事業ノ基礎ヲ作ルコトヲ得タリ」
尖閣諸島の調査に本格的に手を染めたのは明治十七年のことです。折しも憲法調査のため渡欧していた伊藤博文が帰朝した翌年であり、我が国が名実ともに近代国家として生まれ変わろうとしていた頃でもありました。
まず、汽船をチャーターして尖閣諸島の一つ魚釣島に探検隊を派遣、翌年にはみずからも乗船して調査に赴いています。
その開拓の様子については、長男の善次が語った証言(『現代』昭和四十七年六月号所収「尖閣列島は私の所有地です」)に明らかです。
「当時八重山の漁民の間で、ユクンクバ島(尖閣諸島の久場島)は島の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、....おやじもそんな話を聞いたんですね。そこで、生来冒険心が強い人間なものだから、ひとつ探検に行こうと
いうことになったんです。明治十七年のことですがね。....翌十八年、父は明治政府に開拓許可を申請しています。しかし、この申請は受理されませんでした。
当時の政府の見解として、まだこの島の帰属がはっきりしていないというのがその理由だったようです。.....明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から十一年後の明治二十八年です」
そこで古賀は、明治二十八年に政府が尖閣諸島の領有を宣言するや、再び「官有地拝借御願」を内務大臣に提出するのです。ちなみに、時の大臣は吉田松陰門下の一人野村靖です。
野村は三十年の期間を設けて尖閣諸島のうち魚釣島と久場島の貸与を許可します。宿願を達成した古賀の歓びのほどが偲ばれます。
つづく
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