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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

4774志恩:2016/07/19(火) 21:01:21 ID:6hRUvSRg
ウィキペディア
【靖国神社A級戦犯合祀】

天皇の親拝停止[編集]

昭和天皇は、戦後は数年置きに計8度、靖国神社に親拝したが、

1975年11月21日を最後に親拝が行われなくなり、今上天皇も親拝を行っていない。

この理由については、昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感をもっていたことを理由とする主張と、
1975年当時の三木武夫首相が同年の終戦の日の参拝の後、「総理としてではなく、個人として参拝した」と発言した事を
理由とする主張とがあった。

昭和天皇が合祀に不快感をもっていたことを記録した「富田メモ」や、内容を裏付ける『卜部亮吾侍従日記』の発見によって、
松岡洋右と白鳥敏夫の合祀が天皇の親拝を妨げていたと考えられている。

なお、天皇の靖国神社への親拝は行われなくなった後も、例大祭の勅使参向と内廷以外の 皇族 の参拝は行われている。

富田メモの発見[編集]
「富田メモ」も参照
2006年(平成18年)7月20日に、1988年(昭和63年)当時の宮内庁長官であった富田朝彦が昭和天皇の発言・会話を
メモしていた手帳に、昭和天皇がA級戦犯の松岡洋右と白鳥敏夫の合祀に不快感をもっていたことを示す発言をメモしたものが残されていた、
と日本経済新聞の1面で報道された。このメモ(富田メモ)は、富田朝彦の遺族が保管していた手帳に貼り付けてあったものである。
以下、そのメモの記述の一部を示す。

「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが

松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ」


「松岡」とは、松岡洋右元外務大臣、「白取」とは、白鳥敏夫元駐イタリア大使、
「筑波」とは、靖国神社宮司で1966年(昭和41年)に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら
合祀しなかった筑波藤麿を指すと推察される。

1965年6月30日の靖国神社の総代会で合祀する方針が決定されたが、
合祀の時期は宮司に一任された。合祀強行派の中には、

「戦争責任者として合祀しないとなると神社の責任は重いぞ」と主張する者[誰?]がいたが、
当時の宮司であった筑波藤麿は「ご方針に従う。

時期は慎重に考慮したい」と引き取り、
結局任期中に合祀を行わなかった。

「筑波が慎重に対処してくれた」とは、
このことを指すと考えられる。「松平」とは終戦直後の最後の宮内大臣であった松平慶民、
「松平の子」とは慶民の長男で1978年にA級戦犯を合祀を決断した当時の靖国神社宮司、松平永芳を指すと推察される。



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