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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

4184アクエリアン:2016/03/23(水) 19:50:49 ID:fJvizyYg
【第3回】モーリーのBOOK JOCKEY
http://pdmagazine.jp/trend/book-jockey3/

何を読み、どんな経験をしてきたのかを語る

ぼくたちは何を読んできたか②

蒲田黎子は14歳で終戦を迎えた。北陸、富山県高岡市の大地主の娘だった。高岡の奥まったところにある水田地帯の屋敷に生まれ、長男と次男にはさまれた長女であり、戦前はそれぞれの子どもたちが下女にかしずかれて育った。黎子の兄が舶来の子供向け足漕ぎ式ゴーカートを父にプレゼントされ、得意気に乗ってカメラの方を見ているセピア色の写真が高岡市・能町の実家に保存されている。

帝国陸軍がシンガポールを陥落させた後、黎子の父・蒲田實(みのる)は高岡市議会で、

「日本は身の丈にあった植民地政策をするのが良い。勝機がまだあるうちに、拡大はいったん止めてはどうか」

と演説した。その日、議会を監視していた憲兵が色をなして抜刀。

「不忠者!この場で叩き斬る!」

と叫んだが、市長の仲裁で事なきを得た。

戦局が悪化するにつれ、能町の屋敷の樹齢100年を超える巨木が兵隊によって次々と伐採され、「軍艦用」として持ち去られた。それらの「軍艦」が出陣する間もなく大戦は終わった。玉音放送は屋敷の大きな庭で聞いた。家族や使用人たちがラジオから流れる声を聞きながら声を上げて泣くさまを黎子は不思議に思った。

黎子は東京外国語大学に入学するも1年で中退し、改めて早稲田大学の政経学部を受験する。主席で合格した。政経学部を卒業後、進歩派の毎日新聞に応募。

「女子社員の採用はない」

と門前払いを受けるも、

「試験だけでも受けさせてください」

と受験。最高点を取ったため、特例を認められ、初の女性ジャーナリスト候補生として入社した。仙台支局で警察回りをした後、外信部に配属。当時のライシャワー米大使へのインタビューを行う。その後フルブライト・プログラムに応募して合格、米ヴァージニア大学に留学、医学生のトーマス・ロバートソンと出会い、後に結婚。

黎子が毎日新聞で初めての女性ジャーナリストとして華々しいデビューを飾り、ライシャワーや三島由紀夫へのインタビューを重ねていた頃、出版大手・S社に入社した同級生のOがいた。Oは若き黎子に恋い焦がれ、「結婚しよう」と持ちかけたこともあったそうだ。だが家柄が異なり過ぎる上、Oは黎子のタイプではなかった。叶わぬ高嶺の花だった黎子はアメリカに留学。国際結婚して故郷に錦を飾り、第一子モーリーの出産を前に円満退社。

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蒲田黎子さんという方は、モーリーさんのお母様のことで、谷口輝子先生が、理想世界誌で、蒲田黎子さんやモーリーさんのことについて書いておられたことを覚えています。


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