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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2
3409
:
曳馬野
:2015/08/20(木) 02:10:51 ID:JPiKJZkg
●現在の教団の指導部や現在の教団の方針を支持する人からは都合の悪いテーマであることは理解しています。しかし、議論を封印するのは私は賛成しません。
かなりの思い違いではありませんか、トキさん
●昭和五十八年(一九八三年)夏、生長の家が政治との絶縁を宣言したのは衝撃的な出来事でした。
●生長の家は政治と絶縁しただけではありません。昭和六十年(一九八五年)に初代総裁の谷口雅春先生が亡くなられて二代目の清超先生が後を継がれると、三代目候補の雅宣さん(現生長の家副総裁兼総裁代行)の主導権がそれまで以上に強くなった。そして雅宣さんは初代の雅春先生の教義についての解釈自体まで変えていったんです。
この村上さんの語るところそのものが分派の主張でしょう? しかし昭和五十八年は雅春先生のなくなる二年前です。雅春先生に一言の相談もなく、また報告もなく清超先生との話もなく雅宣先生の独断で事が決定され実行されたというのですか? 「三代目候補の雅宣さん(現生長の家副総裁兼総裁代行)」と書いてあるところからこの村上さんの話は実質清超先生が職務を取れなくなったころのものです。清超先生が現場の実質の長として総裁をしているときには、だんまりでその後に政治からの撤退の責任を雅宣先生に持ってくる、分派のしていることと何も変わらない。
私の言いたいことは政治からの撤退が問題ならばなぜ昭和五十八年雅春先生の時から清超先生の時を通算してすぐに問題提起をし続けなかったのかということです。誰の考えからの行動であったのかです、政治的な活動からの撤退が。【現在の教団の指導部や現在の教団の方針を支持する人からは都合の悪いテーマであることは理解しています。しかし、議論を封印するのは私は賛成しません。】と云う前に今の路線をだれが決めたのか?をハッキリさせるべきでしょう。
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