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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

3401トキ:2015/08/18(火) 19:07:42 ID:5fGEXGcs
 上に書いた、東久邇宮首相の返答には伏線があります。

 ジャーナリストの日高義樹氏が、ウイリアム・ブラウン博士のインタビューを紹介しています。
ブラウン博士は、マッカーサー司令部の憲法改正問題の責任者の一人で、ホイットニー准将の
率いる占領軍総司令部のガバメントセクションで日本政府との折衝にあたっていた人です。

 以下は、そのインタビューです。

日高 繰り返しになりますが、新しい憲法を作る指令がワシントンから出され、マッカーサーが
   その指令に基づいて憲法を作ったのですね。

ブラウン マッカーサーが最初にしたのは、東久邇宮首相に旧憲法の改正が最も重要であると知らせた
     ことです。東久邇宮内閣というのは、降伏した内閣でしょう。東久邇宮首相は間もなく退陣
     し、幣原首相が就任し、憲法改正の重責を背負いました。旧憲法改正の大部分は、幣原首相
     のもとで行われたのです。

(「アメリカが日本に「昭和憲法」を与えた真相」 日高義樹 PHP P83)

 少し解説すると、戦争終結で有名になった鈴木貫太郎首相は終戦の責任を負って辞任、その後、日本
の武装解除という重責を果たすため、皇族で陸軍大将であった東久邇宮 稔彦王が首相になられました。

 東久邇宮はフランス留学の経験があり、自由主義的な考えを持ち、日米開戦にも反対していたので、
適任だと思われました。しかし、占領軍の政治犯の釈放や内務大臣の罷免などの「自由の指令」に直面
し、総辞職。後継者は、吉田茂外相の推薦で、元外相で男爵の幣原喜重郎になりました。

 実は、幣原首相は、総理に内定した時には仰天し、辞退をしています。

 「小生は近年著しく老衰せるのみならず、元来内政問題に対する興味皆無にして、到底刻下の難局を
燮理(しょうり)するの自信を有せず。」というのが理由です。

 これが口実ではない証拠に、児島さんは次のようなエピソードを紹介しています。

 戦争末期、吉田茂は幣原男爵を首相にして和平工作をはかるべく、側近の市川泰次郎を派遣して男爵の
出馬をうながしたことがある。市川は、そのときの印象を次のように記述している。

 「2、3分も待つと幣原さんが出てこられた。非常に痩せて生気がなく、がくがくとあごをならし、手
もふるへ、誠に老齢そのものであった。このような御老体を和平運動にかつぎあげて、果たしてどうかと
さへ怪しんだ。」

 そのときよりも、男爵はさらに老化している感じである。

(「史録 日本国憲法」 児島譲 p43)

 しかし、他に人がいない、という理由で強引に説き伏せられ、とうとう首相になってしまいます。

(つづく)


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