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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

3105ぼるぼ:2015/03/24(火) 17:10:41 ID:AX1ipB9A
今日のメモ:


「ChannelAJER プレミアムメールマガジン」 第364号から

黒潮を知ることは日本を知ること     稲村公望

         西郷隆盛の南島憧憬
つづき、、

伊古奈とは、古代の東国の言葉で、伊が神を祭る「齋つ」であるから、祭りを行う女性の意味だ。
伊豆に通じて厳に至り、対馬の厳原や安芸の厳島も伊豆沼も濟南も、伊豆田峠も、みな神を祭る場所である。
三宅島が御焼島であり、御島とか三島と呼ばれるようになり、
白濱神社は明らかに火山の噴火と地震を神の怒りと恐れおののいて遥拝する聖域であることは言うまでもないが、
故郷の島に残した係累に関わる祭祀が残る例祭は10月29日であり前夜には神社南側の砂丘に伊豆七島を象徴する
七基の松明とその中心の松明を火達座と呼んでいるが、
神社境内の山火達山の頂きで、火を起こして、伊豆の島々との交信を行った。
多良間の島には今でも狼煙を上げた桜台があるし、沖縄本島の近くで外国の中距離弾道の発射基地があった。
今では青少年の研修施設が建つ、渡嘉敷島の丘の上にも狼煙台があったから、何の不思議ではない。
例祭の最後の二十九日の落日の直前に、御幣を流すが、丁度季節風が吹き始める頃であり、
島に相模湾に乗せて便りを流そうとする儀式である。
伊豆の島に、花風の港の、紅の手巾を前歯で噛んで石になっても待ちましょうと決意した情熱の伝統が
今も残っていることを確かめる例祭であるが、
一方で火山活動と地震に苛まれる島に係累を残したまま、その故郷を捨て脱出してきた
三嶋大神と伊古奈比咩の悲しさにも相倒しなければ、黒潮文化を伝承する甲斐がない。
西郷隆盛が南洲と号した事を不思議に思っていたが、最近その謎が氷解した。
『月刊日本』7月号に三浦小太郎氏は渡辺京二氏の西郷論である『維新の夢』(筑摩学芸文庫)を紹介して
「明治維新の指導者のうち、ただ一人近代国家の建設ではなく、政治権力と最も遠い所で生を受け、
人知れず死んでいく民の位相を自らの思想の原点としていた。
この姿勢は、渡辺氏によれば、西郷の遠島体験に深く根ざしている」との一文に注目している。
西郷は一回目の島流しは早く島を脱出したいとしているが、
二回目は、島から二度と出ようともしないで「骨肉同様の人々をさえ、ただ事の真意も問わずして罪に落し、
又朋友も悉く殺され、何を頼みに致すべきや、馬鹿らしき忠義立ては取りやめ申し候、御身限り下さるべく候」と
激しく薩摩藩政を糾弾している。
元治元年2月島を出て江戸に登り、維新の指導者になったが、皇城のつとめが終われば、南島に帰るつもりだったようだ。
「獄にありて天意を知り、官に居て道心を失う」とあるから道の島の体験を原点としたのだ。
石になって待った奄美の妻には再開することはなかったが、島に残した子どもの将来を案じ、
教育を外国友人に托し、京都市長等に大成させたのは代官役人には真似できない稀有な事だ。
憶うに、西郷は白濱神社の御祭神の如く島の精神に学び、永訣と哀愁を孤島幽囚の楽に変えるべく南洲と号したに違いない。


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