したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

2923観自在菩薩:2015/02/11(水) 19:06:24 ID:MMm.mrkM
『 ChannelAJER プレミアムメールマガジン』 Vol.331.0 2015/2/11(水)発行kから抜粋メモ:


「1951年7月には、講和条約草案はおおむね完成して、9月に予定されている講和会議に吉田の出席をダレスが要請しているが、吉田は出席をいやがっている。
8月4日に,安保条約草案が、外務省に届けられるが、GHQは、その内容を公開しないように命令している。
講和条約の草案は、8月16日に、公表されたから、政府は安保条約の内容を野党に知らせないで、講和会議に出席を要請したことになる。
講和会議は、9月8日、十時からサンフランシスコのオペラハウスで開催された。
安保条約は、突然、翌日の午後6時からサンフランシスコのプレシディオという美しい陸軍基地の中で,普通の兵隊の集会所で行われた。
戦争の最中に同盟を拒否した日本に対する米国の扱い方である。全ての義務は日本が背負い、米国には権利だけがある、相互という言葉が欠けた条約であった。」


「占領は解放だとするのは、定義の問題であるが、現実は制裁であった。天皇陛下の命を救ったのは、それ以外の占領政策を日本に押しつけるための交換条件であった。」


「米国の介入は、全て日本側で自主的に行われたことにされた。パージのことなどは表に出てこない。
マッカーサーの回顧録には追放・パージの一言も出てこない。」


「講和条約の後ろに安保条約が隠れ、安保条約の後ろに行政協定が隠れている」と改進党の一年生議員だった中曽根康弘が、
講和条約、安保条約、米軍基地の行政協定についての関係をうまく表現しているが、独立しても占領が続いていることが実態であることが国民にも知られるようになってきていた。



ポツダム宣言には、日本に民主主義的な政権ができたら全ての駐留軍は撤退するとあった。
講和条約調印の時に、ポツダム宣言の約束が履行されるべきでしたが、実際にはこの約束は守られず、非合法に講和条約とセットで、安保条約が無理矢理締結された。
調印直前の国会で,吉田首相は、まだ何も決まっていないと答弁して訪米した。
当初の安保条約は、条約の草案、国会審議、全権の指名などの手続きは一切抜きにされると言うごまかしであった。
調印の場所すら前日まで決まらず、講和条約はサンフランシスコのオペラハウスで,安保条約は,突然日程が通告されて、
陸軍基地内の兵隊の集会所で翌日に行われ、吉田首相ひとりが署名したが、その手続きも不明朗であったことは、前述した。
国会批准は、そうした実態を知らずに強行され、日本に国内に米軍基地が継続しておかれることになり、言わば,「永久占領」の体制がつくられたことになる。
1960年には、安保改定がなされたが、これは当初の安全保障条約の欺瞞に却って蓋をすることになってしまった。
日本は、ある時期までは、少なくとも経済問題は、日本独自で取り組む、非武装で経済に専念すると言う考え方を優先させたが、冷戦が終わり、80年代のレーガン大統領以降は、
経済大国となった日本の自由な経済活動は、米国の影響の下で、政治経済政策が行われることが主流となっていった。
これに抵抗する官僚や政治家は攻撃され、人事異動などで姿を消し、日本の自主交渉力は低下していった。

以上の講和にいたる戦後政治の概要は、スタンフォード大学フーバー研究所研究員、故片岡鉄哉教授の著書、日本永久占領(講談社α文庫から出版されたが,現在は絶版になっている。)に依拠してとりまとめたものである。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板