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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

2902ぼるぼ:2015/02/04(水) 17:11:14 ID:xQR592/A
(つづき)

朝鮮戦争が始まると、国防省はより一層講和に反対するようになった。
戦争終結まで、講和を延期すると言い出した。9月14日に、トルーマンは、国防長

官の反対を押し切るために、
ジョンソン長官をマーシャル長官に更迭して、講和条約交渉を命じている。
マッカーサーが仁川上陸作戦を開始する前日である。
ダレスは連合国との多角的な交渉を念入りにしているが、講和はアメリカが演出する

という点では譲らなかった。
日本の再軍備に反対する条文は入れることを拒否した。
対日賠償請求権は履行しないとした。(後にフィリピンの反対で例外ができたが)
吉田の反対にもかかわらず、沖縄と小笠原が信託統治の下に置かれる。
日本は樺太、千島列島、台湾、澎湖列島への主権を放棄するが、帰属は不確定にして

おくとして、
ソ連と中国は支持しないだろうとダレスはおもっていたらしく、ソ連が条約に調印す

るのであれば、
樺太と千島に対するソ連の要求を認知する用意はあった。

講和条約の交渉は、1951年1月25日にダレスの訪日を期して開始された。
ダレスは吉田に再軍備の貢献を求めているが、吉田は、「地下に潜った軍国主義者」

を呼び戻す危険があるという理由をつけて、
再軍備に反対している。ダレスに、日本の中で、ダレスの考えを探す役目の仲介をし

たのが、
ニューズウィーク編集長のハリー・カーンと東京特派員のコンプトン・パケナムであ

った。
ニューズウィークはマッカーサーの、財閥解体や石橋湛山のパージなどを批判してい

た。
ダレスは来日後、 鳩山一郎、石橋湛山、石井光次郎に、帝国ホテルで密会している


しかし、マッカーサーは、ダレスの来日一週間前に吉田と、講和の条件を詰めて,そ

れをダレスに押しつけた可能性がある。
マッカーサーは仁川作戦を行い人気は急上昇して、1952年の共和党候補に担ぎ出

す動きもあったことが、
占領軍の司令官にとどまらずに、影響力を行使した力の源泉であった。マッカーサー

は、
戦争放棄の憲法を,二国間条約の前提としてダレスに押しつけた。
だが、ダレスは、ヴァンデンバーグ決議は、ドイツが再軍備しなければ、
米国がヨーロッパを守ることはできないとすることで、NATOに米国が参加する条件と

して、
地域的相互安全保障、相互援助、自助の原則を遵守するよう、共和党のヴァンデンバ

ーグ議員が要求した決議である。
ダレスは、吉田に対して、強硬に、再軍備への小さな前払いを要求している。
吉田は、警察予備隊とは別に、五万人の保安隊と称する,直接侵略に対応する組織を

起草して、
ダレスには、国家安全保障省と参謀本部の母体としての保安企画本部の創設をダレス

に約束している。
辰巳栄一などの私的な顧問には相談していないし、ひとりでこれを起草している。

(今回はここまで)


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