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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

2901ぼるぼ:2015/02/04(水) 17:08:56 ID:xQR592/A
(つづき)

朝鮮戦争勃発の3日前に、シーボルト大使邸で、ダレスは吉田と会見している。
吉田は、ダレスに、民主的になり、非武装化して、平和を愛好して,世界の世論の保

護に頼るなどと発言したようで、
ダレスはこれを吉田の戦後ボケと表現している。
ダレスは超党派外交の立役者だけに、訪日中も、右から左まで、多くの指導者に会い

、講和についての意見を打診している。
吉田と意見を異なる者は追放中であり、国務省が1948年以来再三督促してもマッ

カーサーは,パージを解こうとしなかった。

1950年6月25日朝鮮戦争が勃発した。ワシントンの首脳は、スターリンの陽動

作戦で、
極東に米軍を釘付けにしておきながら、北太平洋条約機構(NATO)への正面攻撃

を仕掛けるのではないかとの危惧であり、
直ちにトルーマンは、ミュンヘンの教訓、すなわち、いかなる侵略にも宥和してはな

らないという、
後にドミノ理論として発展する戦略を採用する。
1938年のミュンヘン条約で、チェコスロヴァキアの領土がナチスドイツに割譲さ

れたが、
英米は沈黙していたために、ナチスを誘惑に駆りたてることになったから、宥和して

はいけないという教訓である。
マッカーサーと第8軍は、韓国に出動する。
NSC68の戦略が採用されて、朝鮮半島と台湾に対する中立政策は、全面的な支援

政策に改められる。
封じ込めは積極的な軍拡競争に向かうことになる。
朝鮮戦争を戦うことが二国間条約の目的となったが、これは、朝鮮半島を守ることは

日本を守ることであることが現実となり、
吉田とマッカーサーが主張した、非武装などの講和構想は木っ端みじんに吹き飛んだ



1948年頃から、米国の世論は、親日的に変化していたが、10月に人民解放軍が

、朝鮮戦争に参加するようになってから、
一挙に親日となる。「あれだけ抗日を応援したのに、恩を仇で返すのか。裏切りだ。
国務省に赤の手先がいるんだろう。」と後のマッカーシー上院議員の反共魔女狩りに

発展する。
本当の敵は中国だった。日本との戦争は間違っていたということで、We fought the

wrong enemyという言葉が人口に膾炙した。
ケナンは名著、アメリカの外交政策の中で、「我々のアジアにおける過去の目的の全

てが達成されたように見えるのは皮肉なことです。
西欧諸国は中国における特殊な権益を最終的に失った。
日本人は中国から退出して、満州と朝鮮からも退出しました。
これらの地域から日本人が退出した結果は,まさに、賢明で現実主義的な人々が長い

こと警告してきたとおりです。
今日、我々は、日本人が韓国と満州で半世紀にわたって直面した問題と責任を背負い

込むことになった。
他人が背負っていたときに我々が軽蔑していた,その重荷に感じる我々の苦痛は,当

然の罰である。」と書き残している。
7月8日、マッカーサーは、独断で、ワシントンと協議することもなく、国家警察予

備隊7万5000人の創設を命令している。
ダレスは、日本人の志願兵からなる義勇軍部隊を組織することを考えたが、マッカー

サーは、国連義勇軍の芽を摘んでいる。
警察予備隊の海外派兵はあり得ないとした。10月になって、掃海艇部隊を編成して

,派遣したが、それはなかったことにしていた。

(字数制限により、もう一回書き込みます)


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