したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

2900ぼるぼ:2015/02/04(水) 17:05:06 ID:xQR592/A
(つづき)

吉田茂の構想は、戦後早く出たものであり、憲法擁護は後の付け足しであったが、日

本の戦後外交の基本であった。
しかし、朝鮮戦争が勃発して,沖縄の米軍駐留だけで、日本の安全が全うされるよう

な状況が崩れてしまった。
極東の端の朝鮮半島が、冷戦の主戦場になることなど予想していなかったが、
マッカーサーも吉田も朝鮮戦争前の講和構想を変えようとはしなかったが,これは新

憲法が成立していたからである。
1949年9月にアチソンの講和提案が報道され、吉田は事実上の平和を代弁した。
マッカーサーと国務省の主張する線である。11月の第六臨時国会では、米英だけと

の早期講和に切り替えている。
マッカーサーの米軍駐留構想から二ヶ月後のことである。社会党は,逆に全面講和と

なる。
マッカーサーとの合意で、吉田は飛ぶ鳥を落とさんばかりの勢いとなった。
憲法を講和体制に組み込むことで、吉田とマッカーサーが合意したのであるが、吉田

は、単独講和の売り込みも始めていた。
マッカーサーは、1950年の元旦のメッセージで、憲法第九条は日本の自衛権を否

定していないと強調して、
米軍の沖縄駐留は、合憲であると主張している。
成立してまだ四ヶ月しか経っていない中華人民共和国は、日本を特定の対象にした軍

事条約をソ連と締結している。

1950年初頭、中国の喪失、ソ連の原爆開発、等、一連の事態に対処するために、

ポール・ニッツァに命じて、
トルーマンは、NSC68と言う米国の戦略方針を起草している。

1950年の春にいたっても、国務省と国防省との対立は続き、吉田は、日本自ら米

軍駐留を要請して、
早期講和と引き替えにするという案を考え出した。
池田勇人を使者として、マッカーサーの頭ごなしに、ワシントンに派遣している。
池田訪米の直後に、国務省から、アチソン国務長官の特別顧問のジョン・フォスター

・ダレスと東北アジア部長のジョン・M・アリソン、
国防省から、ルイス国防長官、ブラッドレー統合参謀本部議長が来日した。
ダレスと国防長官が同時に訪日したのは、マッカーサーの調停役としての役割が高ま

っていたからで或る。
マッカーサーは、ダレスに講和条約を任せることと引き替えに、二国間条約をマッカ

ーサーが書くことで,ダレスと合意している。
このときに、東京で講和会議を開催するという構想は引っ込めている。
国務省は独立日本の平等と主権回復を求め、国防省は、占領継続を要求していたから

、この水と油の要求を,マッカーサーは足して二で割ったのである。

トルーマンは共和党員であったダレスを起用して超党派外交にして、講和条約交渉の

大役を志願したダレスを、国務次官補クラスの大使に起用した。
ダレスは、アイゼンハワー大統領の国務長官になるが、ダレスほど,日本に対等で平

等の地位をあたえようとした米国人は他にいない。
ダレスは、吉田に再軍備を迫っている。占領が厭なら、再軍備をして独立しなさいと

迫ったのである。
ところが、こうしたダレスは、日本側に嫌われて無視されている。
ダレスには、東部エリートの傲慢さはあったが、マッカーサーの植民地の総督のよう

な人種主義はなかった。
ダレスは人付き合いが悪く、四方山話などは、時間の浪費だと考える長老派教会の敬

虔なキリスト教徒だった。
米国の戦後処理は、無条件降伏という一方の極端から、大西洋憲章、国連、ブレトン

ウッズ体制など国際主義の極端にぶれていた。
ダレスは、第一次大戦後の米国の保護主義に対する反省があり、第二次世界大戦の原

因も大恐慌と保護主義と信じて、
日本との講和条約を交渉するに当たっても、戦争と平和の悪循環を断ち切ろうと努力

している。
ダレスは、日本を「アングロサクソンのエリートのクラブ」に入会させる構想に辿り

着いている。
言わば,文化的な日英同盟の再現であった。しかし、軍事的に同盟を再現することは

ムリで、それがダレスのディレンマとなった。

(もう一回続く)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板