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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

2899ぼるぼ:2015/02/04(水) 17:03:04 ID:xQR592/A
(つづき)

武力闘争すらの始まりも見られた。米国内では、講和を巡って省庁間の対立があった

が、
ペンタゴンは日本の独立に絶対反対で、できない講和案を提案している。
軍政下にあれば、「日本を言いなりにできる」としているが、これは,
ソ連に対する戦略的な攻撃を日本の基地から行うことを指すのである。
マッカーサーは、ペンタゴンを帝国主義的と避難したこともある。
トルーマンも講和を延期することは不当だと考えていたが、軍事官僚を押し切ること

ができなかった。
国防省の講和反対に直面した、国務省は、事実上の平和と称する代案を検討している


内政面で日本政府に自主性を与えて、北大西洋条約のような地域安全保障の枠組み、

すなわち太平洋条約を作ろうとするものである。
北大西洋条約は,ドイツの脅威に対する保障措置であるが、太平洋条約は不発に終わ

った。
米国は、韓国、台湾、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドなどと、二国

間の条約を締結したが、いずれも、日本の脅威に対する保障措置であった。
国務省は、占領とマッカーサー体制が続く限り、日本から閉め出される。
だから、日本を「独立」させることに興味を持ったのではないのか。
マッカーサーも同じで、フィリッピン化構想とおなじように、日本を米国の裏庭に置

くことによって、
米国の保護を受けるようにすることであったから、寛大な講和に賛成して、事実上の

平和の太平洋条約にも反対した。
マッカーサーは、国務省と国防省との対立に乗じて、その調停役の役割を果たした。
1949年5月に、米国は沖縄を恒久的に軍事基地にするという決定を下している。
沖縄で、日本の中立と安全を全うできると考えて、東洋のスイス論を展開しているが


一方、ワシントンでは、石頭のドンキホーテとも揶揄する向きも出るようになってい

た。
マッカーサーは、1949年九月には、独立後のコントロールを撤廃すると新講和構

想に変更している。
その構想によって、講和条約と軍事条約の二本立てが登場することになる。
そもそも安保条約という言葉は、サンフランシスコ講和会議で登場した言葉であって

、それまでは、二国間条約と呼ばれていた。
軍事の同盟条約には相互という言葉が入ることで、タダの安保条約とは同盟国の関係

でなく、
一方の優劣が入っているために、外交上は異例の軽蔑した意味あいが含められている


講和条約と二国間条約との別にしたのは、講和条約の案を国務省が書き、
二国間条約案を国防省が書くという,官僚的な発想であったし、米軍の駐留の問題は

講和条約から外して、
二国間条約に入れて、更に、その一番帝国主義的な部分は行政協定にして国会から隠

すと言うやり方をするためであった。
9月段階の提案では,東京で講和会議を開き、マッカーサーが議長になるとの提案で

あった。
吉田も、米軍駐留には,敗戦直後から賛成であった。
それは、しかし、沖縄に限定されたものであったし、社会党も米軍駐留に賛成してい

た。

吉田茂の講和構想の骨子は、
①日本を米国の勢力圏の端っこに於いて外敵から保護してもらうこと
②沖縄に米軍駐留を許すほか,有事には日本に駐留を許す
③二条件の交換を対等なものとみなし、日米関係を相互的、互恵的なものとする
④日本は国内治安維持の目的で小規模の軍隊を保有する
⑤米軍の駐留に対する反対を中和するために,これを「制裁的な監視機構」とするこ

とで、国会の審議から外すこと
⑥米英の経済圏に日本を編入して,できる限りの経済援助を引き出し、復興に役立て

ること

であった。

(つづく)


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