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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

2836ぼるぼ:2015/01/27(火) 17:59:24 ID:hcXa71vo
(続き)

第五章

戦後の政治運動は、旧政友会の代議士の間で新党運動としてはじまり、その中心人物が鳩山一郎であった。
11月には自由党が創設された。軍部の宣伝機関だった民政党は壊滅的だった。
戦後初の総選挙で,左旋回をさせるために、徹底的に追放が行われた。
共産党と左派社会党だけが日本のリベラルと考えるほどのGHQの過激さであった。
1947年の2月1日のゼネストが転回点となり、GHQは共産党を利用していただけであることが明らかになる。
マッカーサーは、芦田均を追放せずに、民主党の総裁に据えている。
第二回総選挙では社会党が第1党となり、片山哲が首相になる。
世はマルクス主義一辺倒で,丸山真男の全盛時代となる。かろうじての自主性は文化と経済だけである。雑誌心がそのひとつであった。

1947年3月にトルーマンドクトリンが出され、米国では戦後政策の見直しが始まっていた。
ジョージ・マーシャルが国務長官となり、ジョージ・ケナンを初代の国務省政策企画部長に据えた。
ケナンが、Xのペンネームで、封じ込め政策についてフォーリンアフェアズ誌に寄稿した記事は有名であるが、
力の均衡による政策である。ケナンのいう力とは政治的な力であって、イデオロギーの正反対であった。
ケナンは、ルーズベルトと、ニューディーラーのイデオロギーとの決定的な批判者であった。
ケナンほど、スウィンク150の4を批判した者はいない。
リアリズムの中核にあるものは、主権国家とその背後に或る特殊な歴史に対する厳粛な態度である。
ルーズベルトの唱えた最終の平和など求めてはならないとケナンは主張する。
マッカーサーと国務省の立場が、ケナンの登場によって逆転した。
ケナンは、48年4月に訪日しているが、占領行政の過激さに驚いている。パージを全体主義的と批判している。
日本の工場施設が,中国共産党のために、船積みされている実態をこきおろし、
日本語と華族制度の無意味な維持繰り回しも批判している。
東京裁判についても,続けていることにいらだった反応をしている。
東京に着いたケナンと陸軍次官は、マッカーサーと会見して再軍備の話を持ち出したが、
マッカーサーは怒りを隠さずに、再軍備反対を主張した。
再軍備に反対しながら、日本の早期講和と独立が緊急の課題だと主張した。
ケナンは、ソ連が日本を採らなければ済む話で、米国が占領を継続する必要はなかった。
例外は沖縄だけだった。ケナンは後に、アメリカはその逆をやったのではないか、アメリカが先に日本をとり、
ソ連が朝鮮半島を採ろうとして、朝鮮戦争が始まったと推測している。

第六章

マッカーサーは逆コースに反対であったとする説があるが、正確ではない。
マッカーサーはつまみ食いをしたのである。
社会党を擁護する目的があったから、産別潰し、レッドパージを行い、世界が冷戦になり、両極化するにつれて、
中道を守る為に社会党を補強しようとした。マッカーサーの憲法には敵が三つあった。
ひとつは、ケナンであり、一つは再軍備を要求する統合参謀本部で、もうひとつが、新憲法に反対した「保守反動」の吉田茂であった。


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