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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

2801ぼるぼ:2015/01/20(火) 17:02:15 ID:5f5Tg4S6
日本側でも、特に陸軍は無条件降伏に応じるわけがない。
ソ連が、4月5日に,日ソ不可侵条約を一年後の満期を共に破棄すると通告してきており、しかも、ソ連軍は極東への移動を開始していいたから、対日参戦の意図が読めた。
5月2日にベルリンが陥落して、陸軍はようやくソ連との交渉に同意した。
スターリンは、2月のヤルタ会談で、ポーランドの東三分の一と、日本の千島、樺太、大連を手に入れるという譲歩を,ルーズベルトから勝ちとっていた。
絶望的になった日本は、スターリンとの交渉を始める。
無条件降伏という米国の戦争方針が、日本の早期降伏を妨げ,スターリンが漁夫の利を締めるという可能性が明らかになり、
無条件降伏の修正を主張したのが、国務長官代理で、前駐日大使のジョセフ・グルーであった。
当時のステティニアス国務長官は、国際連合の設立に忙殺されていた。
グルーは、スティムソン陸軍長官を、日本は、大正デモクラシー時代の指導者を復活させればよく、天皇制を破壊すれば、
日本はよりどころを失って崩壊するという伝統的な終戦構想で説得することに成功している。
グルーは、天皇制維持という条件付の降伏について、トルーマン大統領の了解を取り付けて、部下のドゥーマンにポツダム宣言の初稿を書くように命じている。
立憲君主制を許すという条項をスティムソンとグルーが了承したのが、5月26日であった。
6月いっぱい、トルーマン政権は、無条件降伏の主張を抑えたが、それは、アラモゴードにおける原爆実験の成功か否かを見据えようとしていたからである。
7月上旬に国務長官がバーンズになり,ニューディーラーの次官補を据えた。アチソンは、日本を共和国にすべきとする人物であった。
ポツダム宣言の最終稿からは、スティムソンもグルーも除外され、7月26日にポツダム宣言が発表される。
グルーは8月に、スティムソンは9月に引退する。
ポツダム宣言は、戦後史の中では、天皇の護持が許されたとしており、外務省も、条件降伏だと主張したいたが、50年6月のダレス来日以来、無条件降伏と修正している。
一番肝心なことについて、ポツダム宣言は明言を避けていた可能性がある。二股膏薬、ダブルオプションであった可能性はある。

「原爆もソ連の参戦もなかったポツダムにおいてより、なぜわれわれが、ソフトピースの方に更に行かなければならないのか」と、バーンズ長官が言葉を残している。
8月6日に、広島に原爆が投下され,その二日後にソ連が宣戦布告をして、長崎に原爆が投下される。
8月10日付けで、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾する」と回答する。
ポツダム宣言受諾に軍配をあげられたご聖断の結果である。
この回答に対して、「降伏の瞬間から,天皇と日本政府の国家統治の権限は連合軍最高司令官に従属する」
「最終的な日本政府の形態は,ポツダム宣言に従って,日本国民の自由に表明される意志により樹立される」と回答してきた。
12日に日本に到着して、従属とは何かが議論になったが、14日には、天皇陛下は、御前会議を招集され、宣言の受諾を確認された。
天皇陛下の介入のみが戦争を終結できた。日本の皇室の安泰について、米国政府は何の約束もしておらず、法律的には、存続も廃止も両方可能であった。
宣言は、皇室を廃止すると脅しをかけて武装解除と占領改革を推進することを可能にしたのである。
降伏後の交渉で確保されたのであり、日本陸軍のポツダム宣言に対する不信は正しかったのである。

(さらにつづく)


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