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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

2223生政連:2014/07/30(水) 16:51:03 ID:2x8F428Y
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さくらの花びら「日本人よ誇りを持とう」7.28

また例の如く8月がやってきます。

「例の如く」というのはマスコミの「戦争の悲惨さ」だけの報道のことであります。特に今年は集団的自衛権の行使と絡めて「戦争する国にしてはいけない」となるのではないでしょうか。

戦争というのは悲惨なのは当たり前です。しかし悲惨を知った上で民族の誇りにかけて戦わなければならない時もあるのです。そこが大事なのです。

南洋の島々が日本統治であった時代がありました。第一次大戦後のパリ講和会議で赤道以北のドイツ領を日本が委任統治することに決まったためです。

現地の人たちは白人の植民地支配で筆舌に尽くしがたいほどの辛い目に遭っていました。人口が10分の1まで減った島もあります。ですから日本統治となった時にも人々は「白人から日本人に代わっただけ」「また奴隷のように扱われ、ひどい目に遭うに違いない」と思っていました。

しかし、日本はそうではなかったのです。学校をつくり、病院をつくり、道路も水道も電気もつくる。現地の人たちを差別することもなく、日本人と同じように接してくれたのです。だから彼らは今でも日本に親しみを感じ、日本を大事に思ってくれるのです。

戦後、日本統治からアメリカ統治となったパラオでは、日本を「悪」とした反日教育を行い、日本人の築き上げた日本文化を破壊し、二宮尊徳像も壊し、神社も破壊しました。そして学校では「日本人は残虐でパラオ人を虐殺した」と長期に亘って教育しました。

しかし、日本統治を知る年長者が「何があっても日本を愛している」と言いました。それは「強風が吹いたら日本人がつくった建物へ逃げ込め」と今でもパラオで言われるくらいに日本人を信頼していることでもわかるでしょう。

パラオにペリリュー島という島があり、そこで日本軍(中川守備隊長)と米軍の壮絶な戦いがありました。これは長くても3日と言われた戦いが73日も持ちこたえました。後の硫黄島の戦いも5日と言われたのが36日も戦い続けました。なぜ日本兵は命を惜しまずそこまで戦ったのでしょうか・・・。

それは、日本人は知っていたからです。白人の植民地政策をです。白人の植民地政策は残虐そのもので、人間を家畜の如く扱い、婦女子を犯し、すぐに殺す。

そういうことを日本兵は知っていたのです。「一日でも長く日本を守りたい。愛する妻や子供、そしてお父さん、お母さん、愛する故郷を守るためにも・・・」

この日本兵の勇敢なる戦いがあったからこそ、戦後の日本の國體を守ることが出来、今、我々はこのように豊かに暮らしているのです。これはまさしく先人の尊い命を捧げたお陰であると「感謝」しなければならないことでありましょう。

これを「軍部の暴走」と学校では教え、マスコミは日本軍を非難します。そうでしょうか。

昭和55年のイラン・イラク戦争の時に、日本にも他国にも見捨てられた日本人をトルコが救援機を出して救出してくれたのは日露戦争の日本の勝利にあります。それまでトルコはロシアに19回も侵略され、そのうち18回もトルコは敗戦し、その都度、ウラル、カフカズ、黒海沿岸などをロシアに奪われてきました。だからこそトルコは日露戦争の日本の勝利を自分のことのように心から喜び、人々は通りや子供に「トーゴー(東郷)」や「ノギ(乃木)」と命名したのです。トルコのヌレシュ元駐日大使は在任中は毎朝欠かさず明治神宮に参拝していたくらいです。

トルコの救援機で脱出した日本の駐イラク大使は「私は戦前の日本に助けられた。謝罪外交や援助外交など何の役にも立たない」と言いました。この言葉の意味をよく噛みしめたい。

http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/32890137.html


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