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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

1284うのはな:2014/01/22(水) 19:48:37 ID:8sdJQ7mg
   「隣人の中国とどうつきあうか」  評論家 黄 文雄

 ということをよく聞かれたことがある。
『孫子兵法』には「伐交」、つまり「どう付き合うか」ということを「次善の策とされる。
「伐交」の次は「攻城」(城を攻める)を下の下の策と説く。つまり闘うこと、「ケンカする」ことを
下の策とされるのである。

「どう付き合うか」を考える前には、まず「これから付き合うか付き合わないか」を深思熟考してから、止むを得ない場合は、
はじめて「どう付き合う」かを考えるべきだ。孫子は至善の策を「代謀」という。
決して「はかりごと」や「権謀術策」ばかりをはかることではない。

 よく考えて、商人の場合ならよく計算してから出ることでもある。それを「廓算」ともいう。
もちろん「知彼知己」つまり「彼を知り、己をも知ってから」どう出るかを決めるのである。
互いによく知ってから孫子は「百戦危かざる」つまり「百戦百勝」となろう。中国と「付き合う」か
「付き合わないか」を考える場合は日中の長い歴史の中でも、さまざまな史例があった。

 戦後だけを見ても、日中国交は四十年の節目が二〇一二年である。尖閣をめぐる反日の暴走で流れたことは
よく知られていることだ。終戦の一九四五年から約二十余年間日本は前朝の中華民国(台湾)と付き合っていたのは、
「友好人士」か「友好商会」かに限定されていた。

 中国人学者や言論人はよく「中国と付き合わなかったら、日本は生きていかれない」と自慢するが、そんなことはない。
日中関係史は、千数百年、いくら遡っても二千年ぐらいのものだ。明確になったのは、聖徳太子の遣隋使以後のことで、唐末の黄策の乱などで
中止した。以来、日本は平安から鎌倉、室町、江戸時代で開国したり、鎖国したりして、大陸や半島とは依然交遊を断絶しなかったものの、ほそぼそと
船舶の往来ぐらいだけだった。

 開国維新後は、よく知られているのは福沢諭吉の「アジアの悪友どもとの交遊謝絶」の主張で、脱亜入欧して日本は近代国家になったのだ。
日本と中国と付き合った過去の歴史から見て、中国と付き合った時代と交遊謝絶の時代はどうだったか、それを知ることは、歴史の教訓を学ぶことにもなる。
ごたごたが多く、好いことはまったくなかったといえなくても、中国とは「善隣」だけはいかにむずかしいかという教訓を知ったはずである。
善隣はむずかしいか、できないのだから、すでに二千余年も前の春秋戦国時代の外交政策である「遠交近攻」は今でもつづいているのだろうか。

 中国との対等の付き合いはまず不可能である。それは聖徳太子の時代に「日出ずる国の天子より日没する国の天子」に与うる国書が隋の煬帝の不興をかっただけでなく、
それ以来の中国から日本への国書はたいてい「封国王」か「任将軍」などと「属国あつかい」しかなく、対等の付き合いは絶対不可能。
今でも「友好とは何か」の解釈権はすべてが中国側にある。それが中国との付き合いの絶対不可欠の条件だ。

 では「どう付き合うか」にさいし、「彼を知り、己をも知る」ことさえ知らない日本人はあまりにも多すぎる。その多くは国民性からくるものである。
私はよく日本人と中国人とのちがいについて聞かれることがある。私はたいてい躊躇なく「誠」と「詐」との一字のちがいだけだと即答する。「うそではないのは詐欺師だけ」
の中国だ。中国人との付き合いは「腹を割って話せば分かる」と日本の言論人はよく主張するが、日本人が「腹を割ったら」中国人の好いカモになるだけだ。
中国人は問答無用の国民性で、利しか動かない人種だから、金のことなら生命までいらない。

 中国人社会は神まで銭で買える。徹底的に弾圧されるとすぐ従順になる。
だから中国人と道理で付き合うと百戦百敗に決まる。

 『われわれ日本人が尖閣を守る』 保存版


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