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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

1138うのはな:2013/11/17(日) 15:05:17 ID:9yQLnGEA
   
  さらに米国は山奥に収容した日本人に対し「東條首相から来た」というニセの手紙を見せ、「この手紙には、諸君日本人は武士道を持て。
武士道とはその国、つまり米国に忠誠を尽くすことである。と書いてあるぞ」と説得し、
これによって収容所の二世(息子)が親を米国で護る意味でも徴兵に応じ、四四二部隊が結成された。
この四四二部隊を太平洋戦線に投入すると、日本軍に寝返ると疑われ、欧州戦線で戦わされた。この二世部隊はダッハウのユダヤ人収容所を解放して、
死の寸前の五〇〇人のユダヤ人を初めてドイツから救ったので、今でもユダヤ人は日本人に感謝している。

 四四二部隊はその後、難攻不落で連合軍が陥落できなかったイタリア北部とドイツとの国境にあるドイツ軍要塞攻撃を命令された。
急角度の険しい山岳地帯をよじ登り、仮眠中のドイツ兵を襲って連合軍が一ヵ月かかっても陥落しなかった要塞をわずか三二時間で陥落させた。
そしてこれがドイツ軍が敗戦して降伏するきっかけとなった。

 四四二部隊は二八〇〇人のうち一四〇四人が戦死した。ミッドウェー作戦の一環として、米国のレインボー計画のアリューシャン・アラスカ防御軽視を
逆手にとり、山本五十六の立てた陽動作戦であるアッツ島(陸軍が上陸)、キスが襲ってくる、と全米国民の背筋を凍らせ真っ青になった。米軍も大慌てだった」と
米本土防衛司令官が終戦後、私におどおどした表情で直接語った。ちなみにキスカ島占領の全海軍将兵は、敵の目を盗んで全員無傷で生還した。

 島つながりの話として、ペリリュー島守備隊の主力は日本陸軍の歩兵第二連隊で、上陸の損害比率四〇パーセントを蒙った」とアナポリス海軍兵学校で教えている。
そしてペリリュー島には「諸国から訪れる旅人たちよ。この島を守るために日本軍人がいかに勇敢な愛国心をもって戦い、そして玉砕されたかを伝えられよ」とのニミッツ提督の
言葉の碑が建っている。

 『日本は負けたのではない』 中松義郎 著


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