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生長の家政治連合と「今の教え」を考える/2

1081うのはな:2013/11/04(月) 18:04:33 ID:2PjxXirU
    行き過ぎた政教分離と慰霊の心

 新田均皇學館大學教授は次のように指摘する。
「多くの国は、中心者を政治的能力で選ぶ。これに対して日本は、『祈る人』すなわち天皇を中心にまとまってきた。
皇室祭祀は国民の信教の自由を束縛するものではない。国の安泰、国民の幸せを願う天皇の祈りは公共的だ。公共の祈りを
認め合うことは、宗教対話の世界でも常識となっている」

 権謀術数の世界に生きる政治家には、国民の幸せを願うという政治の原点を見失う瞬間があってもおかしくない。
「首相や閣僚らの政治家が、無私であろうと努めている天皇に接することで、自らの志を思い起こす」(新田教授)ことも、
立憲君主国ならではのあり方だ。今の憲法の下で、政教分離が、国や地方自治体との宗教との関わりをすべて否定するかのような
杓子定規な解釈がまかり通っている。

平成25年3月11日、仙台市若林区の海沿いの市有地に、地元自治会などが東日本大震災の犠牲者を悼むために建立した観音像「祈りの塔」の
開眼式と慰霊法要が行われた。出席した近くの浄土寺住職、中澤秀宣さんは市の職員から「宗教色をあまり出さないで」とクギを刺されたという。
「変な話ですよね。どうみたって観音様なのに」。納得できない思いのまま僧衣を着て読経した。行政は宗教との関わりにあまりに神経質になってはいないか。

 海岸から500メートルほど離れた所に、浄土寺のプレハブの仮本堂がある。
同寺のある若林区の荒浜地区は、内陸部に集団移転することになっている。住民は移転先で住宅を建設する際に市から補助を受けられるが、寺の移転に補助が出ることはない....。

 東日本大震災では、行き過ぎた政教分離が、犠牲者の仮安置所での慰霊にまで影を落としたことは、あまり知られていない。
仙台市では、大津波で亡くなった身元不明の犠牲者が、仮安置所に収容された。ある仮安置所では、被災地支援のため集まった僧侶たちがボランティアで読経しようとしたところ、
市の職員に立ち入りを禁じられる出来事があった。この問題をいち早く取り上げた月刊誌「寺門興隆」の矢澤澄道編集長によると、仙台市の職員もその際、「何もせずに旅立たれるのは心苦しい。
しかし一方で、憲法は行政と宗教のかかわりを禁止している」と悩んでいたという。
後に、この仮安置所での僧侶の読経は許されるようになったが、震災直後は僧侶たちは戸外で読経するしかなかった。

   『国民の憲法』 産経新聞社


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