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「教区会員」板

254さくら:2012/11/06(火) 14:54:45 ID:JiHdFUis
アクエリアンさま

合掌、 ありがとうございます。

本流対策室へ、あのような返信いただき、感激しております。

また、「和解」ということを、「信仰の本質的なことだ」ということに同意いただいて、ありがとうございます。
このことは生長の家の同じ信仰を持つものとして、ありがたいと思っています。

アクエリアンさまのような精神世界に対しても新しい感覚で見ることができる方がいらっしゃるのは、たいへん心強いことですね。

近年では、宗教に現世利益や奇跡を求めなくなる傾向…というようなことを書きましたが、これは「救済」が必要とされなくなっていることではなく、
救済の形の変化があるのではないかとは、個人的には感じています。

アクエリアンさまだったでしょうか、創価学会の、人間関係の密なお世話活動を見習うべきだとの趣旨をかいておられたのは…。
いま創価学会の信徒も、二世三世時代で、「外」へ外へと伝道を無理に広げるより、「家族宗教」的に伝えられる傾向になってきていると聞きましたが、
宗教も、全体として縮小の傾向があるようです。
新興宗教に求める人の意識も変わってきていることもあるかもしれませんね。



「救済」というのは、キリスト教の背景をもつ欧米人のものと、
日本においての感覚とは、これが、同じ宗教の中で使われる「救済」としても、当然、異質なこととおもいます。
キリスト教的「原罪」や罪の意識は、…もちろん個人としてキリスト教の信仰を持つ方は別ですが、
ふつう、日本人の感覚では欧米人のような意味での「罪の意識」という概念は薄いものではないかとおもいます。
キリスト教的には、神と自分の間での「許し」というのは、存在そのものに関わる問題ですが、
日本的には、劣等感や世間に対する「恥」という感覚の方が意識に強いですが、神との間においての、「原罪」に苦しむという感覚はあまりないことのようです。

生長の家でも、罪の正体は「包み」であり、日本では神道的な「穢れ」というものが言われますね。その方が日本人には感覚的にわかりやすいです。

日本人には、天照大御神の子孫として歴史の始まりがあり、むしろ、「神の子」というのは「自然状態」の感覚としてあり、
それが、天皇を中心とした「家族的意識」として日本民族の精神に受け継がれるものがあったと思うのです。
ですから、「救い」といっても、人との「家族的」繋がりや共同体意識のなかで感じられるものが大きいような気がします。宗教意識というのも、その共同体を守るためであったり、自然への畏敬の念として育まれた部分が大きいのではないかとおもいます。

人類は文明の発達のなかで経済や政治的な組織の仕組みをつくりましたが、その仕組みにこそ今度は、人間の根本的な存在価値が「排除された状態」が、いまの文化的状態としてあるともいわれるようです。

そのなかで、宗教も、思想的な闘争の末に救いがある時代もありましたが、
いまの精神世界の「江戸時代回帰のような第三次安定期」と言われるような時代では、一方で、共同体意識や、自然状態への回帰に救いを求めるような流れがあるのではないかとおもわれる傾向もあります。

人間が神の子であるという真理もまた、思想的闘争をこえた、
共同体的な助け合いや繋がりの意識をもって伝えるあり方が、
いまの宗教の活動にも求められるように思うのですが…
アクエリアンさまは、いかがお考えでしょうか。

さくら拝。


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