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本流対策室/3 板
1674
:
志恩
:2012/09/30(日) 01:23:18 ID:.QY5jUA6
③ 観念的な理想と実相の直視とは違う
だから谷口雅宣氏は「天皇国・日本」というのは一つの観念的な理想だという。
同氏によれば「生長の家でいう『天皇国・日本』とは、大変深い意味での“理想国家”を指しているのです。
単なる政治制度でも、心情主義でもない。それを実現する方法も、政治的な数のバランスを考えて、議会でこれだけの数を取ったら憲法を改正する
そうではなく、天皇の生き方を模範とし、神意を第一とする生き方が一人一人の国民の間に弘まっていき、外国においても、キリスト教の国ならば
“神の国”や“神の国の義”を第一にする人々の数が増えていけば、そこに神意が現成した素晴らしい国が建設されるだろうという意味であります」と書いている。
けれど「天皇国・日本」というのは、長い歴史と伝統に培われた日本国民の実相であり、たんなる観念的な理想ではない。
観念的な理想とは、まだどこにも無い、「在らざる」ものへの見果てぬ夢としての観念的なイメージである。
ところが、実相とは、「すでに在る」ものであり、それは宗教的な実在なのである。
宗教的な実在とは、たとえばキリスト教徒にとっては「最後の審判」ということは宗教的実在なのであり、キリスト教徒以外のものには
「最後の審判」などということは形而上学的な虚構にすぎないとしても、誠実なキリスト教徒にとっては、それは「原罪」、聖母マリアの「処女懐胎」、
キリストの「復活」などの神話とともに自分で自分を堅く縛っている宗教的実在なのであり、それは観念的な、または思想的なイメージでもイデオロギーでもなく、
精神作用として自分で自分を厳格に監視する宗教的信念における実在なのである。
「京にいて京なつかしやほととぎす」(芭蕉)なのであり、現実の京都に居ながら、なお実相の京都をなつかしんで鳴くほととぎすのように、
「すでに在る」「天皇国・日本」の実相を直視することが、宗教としての「生長の家」の信徒に求められているのではないだろうか。
谷口雅宣氏は、一流の評論家とはとても言えないが、二流か三流の評論家として、思想的観念と宗教的想念とを混同している。
「生長の家」では「すでに在る」「天皇国・日本」の実相を直視しようとする。
それが「神想観」の実修なのであり、それは観念的な理想ではないのである。
観念的な理想としては「天皇国・日本」などというイメージは、在るかないか分らない未来への漠然としたイメージにすぎない。
「天皇国・日本」とは、日本の民族的な宗教的想念としての実在なのである。
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