したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

本流対策室/3 板

1501解説者:2012/09/28(金) 13:28:32 ID:???

吉田國太郎先生著『常樂への道』〜住相精進の境を超えて〜より

「(前略)完全のみがある、そして不完全は無い。自分が整へようとかゝつてゐた其の整へきれない自分はない。今私が尤もらしく、『今の現實を晦まさず其処を忠實に生き、現實から淺く走らずはつきりときはめきつて』などと云ってゐる、其の今は『永遠の今』ではなく現象の今に過ぎず、此の現實、此の現實と云ってゐる現實は、實相の現實ではなく現象の現實で本来無いものではなかったか。『永遠の今』が現象の今にすりかへられ、實相の現實が現象の現實にすりかへられ、何時しか地に墜ちようとしてゐたのである。生長の家を現実逃避ではないかなどと反撥したり、無理に目を閉ぢて今現にある苦しみを見まいとして力んで居るのではないかなどと理屈を云ったり、全てをもっと公平にもっと冷静に、あるが儘のその儘を受け容れなければならない、などと云ったりする人が出てくるのも、本来空しきものに過ぎない現象の現實をあるあると迷つて居るからこそであった。實相と現象との関係などと愚かにも考へた日もあつた。實相獨在で現象は無いのに、どうして両者の間に関係などがあり得るだらうか。関係などと考へる間は未だそれは現象無しが悟り切れて居ないのである。現象が死にきらずふらゝしてゐるから両者の関係などと躓くのである。魂が目を覚ますこと。現象が死に切つて。其処へ實相が生れ出づること。完全のみがある、そして不完全は無い。善のみがある、そして善でないものは無い。清めあげなければならない自分は無く、励みに依って完全にしなければならない自分も無く、實相の完全さをみて未だ到り得ないことを嘆かなければならない自分もなく、今あるやうにみえてゐる不完全なものは幾らあるやうに見えても全てなく、そして今既に始めから成佛して居ると諭されて居たのであり、藭一元佛一元でそれ以外は無いのであると知らされて居たのであった。これを悟る事に依ってのみ吾等は藭であり、佛であり、完全であり、清くあり、高くあり得るのであつて、それ以外に道は無いのである。悟ること。新たに生まれること。誠にも、人新に生れずば藭の國を見ること能はず、である。(後略)」

吉田國太郎先生のご文章にアンダーラインを付けるとしたら全部になりますが(笑)、このご文章を本流派、教団擁護派、和解派、すべての生長の家信徒に贈ります。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板