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本流対策室/3 板
1225
:
元本部職員s
:2012/09/22(土) 11:08:51 ID:4XyYSDw.
>また、上にものがいえず、風通しのよい体制が作れない組織の古い体質などによって、幹部や職員の方には感情がこじれて、遺恨を残すような結果になったりしたことはないでしょうか。
清超先生の時代は週一火曜会というものがあり、そこでは職員達が自由にものが言えたということがありましたし、
私も清超先生とは本部の旅行の時に隣の席に座らせて頂いたりもしましたので、そのお人柄は、本当に気さくで暖かく職員に対しても思いやりと愛の深い清超先生でした。
そのようなことで当時は上にも遠慮なくものが言えたと云うことであります。
今がまさに、上にものがいえず、風通しのよい体制が作れない組織になってしまい気さくにものを言える状態では無い様子です。
下手に逆らうと即左遷か首とか、もう独裁体制をしかれていると言われていますので、
今の体勢が酷い状態であるということを知らない人にとっては、組織の古い体質のせいと、そのように感じると思いますが、事実は全く正反対なのです。
>ただ、その後の、政治運動への失望を吐露されたことや、宗教団体としての使命は純粋な信仰の深化にあるとして、結局は、信仰を求める信徒を大切にされたこと、
日本国実相顕現の宗教の使命は祈りにあるとして、龍宮住吉本宮で、祈りに徹せられたことなどが、生長の家の政治運動の撤退であったとおもうのですが、
それは、最終的な雅春先生の想いであられたのではないのでしょうか。
それは、全く事実とは異なります。雅春先生は最後まで日本の国を憂い天皇国日本の実相実現を願われていたのです。
その真実の雅春先生の御心を継承せずに、現象の政治運動の悪を認め捉われ宗教団体としての使命は純粋な信仰の深化にあるとして、しまったと言った方が適切かと思います。
結局は、信仰を求める信徒を大切にしようとされたとは言えない事態に現になり今争わなければならないような事になってしまっているという結果が全てを物語っていると思うのです。
これは、最終的な雅春先生の切なる願い想いを抹殺した結果ともいえるのではないでしょうか?
>わたしは、教えを自分の良心にしたがって広めることは、信仰の現実を言っているので、理想論ではないと考えています。
現実に自分の周りの困ってる人、それを助けたいと思うこころは、現実ですよね…。
もちろん、それは正論です。何故理想論になってしまいそうかと申しますと、
やはり今の教団が公的にも一般社会にも左翼思想と誤解されるような言動をしてしまった事があっては、
生長の家=左翼とみなされてしまうので、そうではないのだとして、真の信仰の深化としての生長の家に戻すために闘わざる得ないことになってしまったと言う事なのです。
>思想闘争こそ、お互いの理想論のぶつけ合いではないかと、感じるのです。
「人類の幸福」の理想論のための争いに、小さなおもいやりや愛情が、軽視されていることは、ないでしょうか?
もちろんそうではありますが・・・今のトップの思想で進行されますと、「人類の幸福」の理想論のための争いが、「人類不幸」の理想論となってしまいそうです。
そして小さなおもいやり愛情が、軽視されてしまっているような感じがしてしまうのです。
だから、そうであってはならないと、本来の生長の家に戻そう運動となってしまったのだと思います。
さくら様の辛苦な切なる想いは充分理解もし、そのようになって欲しいと願うが故の解答と思って頂ければ幸いです。
再拝合掌
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