[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
801-
901-
1001-
1101-
1201-
1301-
1401-
1501-
1601-
1701-
1801-
1901-
2001-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
本流対策室/3 板
1129
:
さくら
:2012/09/20(木) 12:45:34 ID:qZAyo/PQ
聖典を謹写するのは、純粋な信仰の学びのためである、
そういうことは、素晴らしいことだとおもいます。一部の抜粋でも、教えて頂くことがたくさんあります。
勉強不足ですが、きっと、続けて読むことで、全体に流れる教えの真髄を感じて行くことが、できれば有難いなとおもいます。
しかし、わたしが、自分の主張のためには、あまり聖典を引用するのはどうかな、と考える場合があるのは、
その聖典の一部を取り出すことで、自分の行動の正当化をすることにはならないだろうか、とおもうからです。
そのようなことには、利用したくありません。
雅春先生は、広大な教えを多方面から説いてくださり、言葉で表現したため、どうしても、一見、矛盾した表現や受け取り方があったり、時代によって、そのときにしか本当のみ心が分からないものもあるのではないかな…と推測いたします。
たとえば、「サタンを打つ」のご文章にはひっかかりました。
これは「別の思想を持ったものは、サタンとして排斥して人格否定をしてもよい」という正当性には、ならないとおもいます。
それでは、カルトと同じ道筋の文意になってしまうとかんじました。
むしろ、わたしとしては、自分のなかから、唯物主義におちいるような発想を排除する、そんなものが他人の中にあるとして責めるこころを、自分の中から排除する、と受け止められます。
み教えは、常に自分を振り返るものでありたいですが、
わたしも、試行錯誤の、学びの最中ですので、この点、心して気をつけたいとおもいます。
拝
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板