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本流対策室/3 板
104
:
金木犀
:2012/08/02(木) 02:43:03 ID:auusu5IE
志恩様
ネットではどうかわかりませんが、私は雅春先生の解釈で判断しているので、
古事記は雅春先生の霊感的解釈を本に判断しています。
天照大御神は実在の人物だという説だとすると人間の霊魂ということになって第三義の神となってしまいますが、
雅春先生は、あくまで宇宙神であり、高天原(実相世界)を統べる中心の神との位置づけをされております。
陽の陽たる、つまり霊性の極みである神であり、それゆえにその顕現たる天皇が、宇宙そのものであり、
天皇とは相対の世界にある絶対ではなく、相対を超えた絶対者であり、
すべてのものは天皇より出でて、天皇に還るとおっしゃっておられます。実相の天皇とは宇宙そのもののようなことを
仰っています。だから日本とはこの現実の日本国のみならず、実相世界そのものだと仰っていますから、
私は、天照大御神も本源神とみなすべきかなと思ったのです。
あくまで雅春先生の解釈、生長の家の解釈をもとに判断しています。
また阿弥陀仏にしても、雅春先生が阿弥陀仏に関して、
阿弥陀仏は尽十方に満満(みちみち)ておられる“宇宙の本体”的実在であらせられ、尽十方無碍光如来とよばれているのであります。尽十方というのは八方に天地の二方を加えて十方であります。十方をことごとく尽してあらゆる方角にも充ち満ちていられる無礙の光が阿弥陀仏なのです。無礙というのは、どんなものもさわりにならない障礙物(しょうがいぶつ)にならないで何処にでも満ちておられることであって、「光」というのは「智慧」のことであります。
宇宙遍満の智慧が阿弥陀如来である。如来は尽十方に満ちみちておられるから、「彼の仏如来は去って去る所なく、来って来る所なく」と、法顕訳の大無量寿経に書いてあります様に、去来して、どこからどこへ来迎あそばれてお救けになるというような、そういう空間的な距離的働きがなく、十方――あらゆる方角――に満ちみちておられるのが阿弥陀如来であります。
だから現実に人格的に姿を顕して人をお救いになるという時には、阿弥陀仏そのままでは出てこられないで“観世音菩薩”のお姿をして出て来られるという事になるのであります。この観世音菩薩が生長の家の神様なのであります。
と書かれているので、本源の神という解釈ですから、
そのように書いたのですが、これも一般の仏教学者はどうか知りません。
すべて雅春先生の解釈によるものです。ももんがさまも仏教にはお詳しいようですが、
雅春先生の仏教とは解釈が違うこともあるようですから、私は雅春先生の解釈をもとに考えたいと思っております。
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